名刺の文化

 読者の皆様、あけましておめでとうございます。新しい世紀の始まりです。この1年のご健康とご活躍をお祈り申しあげます。

 新年の挨拶まわり、懇親会などで名刺を交換される方も多いことと思います。昨年は長野県庁での名刺折り曲げ事件が世間を騒がせ、友人からこのテーマをとのりクエストがありました。藤井局長の進退問題については内部でのやり取りが公表されておりませんのでここでは触れないことにしますが、放映された名刺交換のマナーに関しては私には田中県知事と藤井局長のお二人とも奇妙に映りました。

 私は何千人も社員がおり、何百という組織のある会社に勤務していました。当然見知らぬ社員もたくさんいるのですが、社内では名刺交換はしません。ましてや社長や役員が部下に名刺を出すなどという事はあり得ません。会社の名刺というのは一種の身分証明です。同じ社名の名刺を持つということは、すべて身元のわかっている人間どうしであり、たとえ面識がなくても名刺を交換する必要はないのです。正式組織名や社内電話番号を知らなくても調べる印刷物(今は電子化されていますが)があります。ただ、子会社の場合は住所、職制が異なったりしますので確認のため交換することはありました。

田中知事は「私の流儀ですから。インターネットのアドレスも入っているので…」というようなことをおっしゃっていたと記憶します。自費で作られた個人用の名刺なのかも知れませんが、それをいきなり公式の場で出すのはおかしいし、県庁内でインターネットを使って連絡する方法があるのなら、公式のアドレスはお互いにわかっているのが常識です。知事は名刺を出すより、まずは県庁の組織とその幹部職員の名前を勉強しておくのが普通ですし、またその資料を用意する職員もいるはずです。わざとそうしているなら組織内の不協和音を感じざるを得ませんし、誰も気づかなかったのならそれはそれで問題です。

 仕事の名刺はただの印刷物ではありません。両手で丁寧に扱うのが普通です。よく商談の間、テーブルの上に相手の名刺をのせておきますが、うっかり落とした場合は「申し訳ございません。」とか「失礼しました。」と謝ります。この時点で名刺はすでに「人」なのです。相手の名刺の上にお茶をこぼしたという人の話も聞きません。公の場で相手の名刺をへし折るなどは相手の頭をなぐるに等しい行為です。以上は私のビジネスマンとしての経験から得た「名刺の文化」ですが、作家や公務員のかたがたは異なる文化をお持ちなのでしょうか。

 不思議なもので名刺をいただいた時はお顔やその時どんな会話をしたかなどいつまでもよく覚えています。それだけお互いに心がこめやすい小道具です。また、会話につまっても社名の由来や組織のことなど小さな紙1枚に刷られている情報だけで十分話題が作れます。

 「ビジネスマンにとって名刺は財産」とよく言われますが、仕事でお会いしていただいた方の名刺はのちにご縁がなくなっても捨てたことがありません。10年前、いやそれ以上の名刺でも何かの役にたつことが年に数回あります。整理は大変ですが、正月休みを利用して毎年インデックスのつけかえなどをやっております。これが仕事のヒントになることもありますし、思い出したようにご無沙汰おわびのお便りを出すこともあります。これは住所録の文字の羅列を見るだけではなかなかできないことだと思います。

最近は、学生や主婦、ビジネスマンも会社の名刺とは別に個人の名刺を持っている人がふえました。名刺を差し出す時背筋がピンと伸びますが、なんだか快い緊張感、自信や誇りも生まれてきます。たがが名刺、されど名刺、この小さな紙は実にすばらしいパワーを秘めて心と心をつないでくれます。この1年どうか上手に大切に使って良い思い出をたくさん残してください。

2001.01.05

河口容子

しくみの崩壊

 子どもの頃は西暦2000年の自分など想像もつかなかったし、当時は西暦表示が少なかったせいかあまり意味があるとも思いませんでした。いざなってみると、Y2K問題以外は1999年とさほど違ってはおらず、あらためて自然な時の流れを畏怖している次第です。ただ、20世紀を半分近く経験してきた者としては、第二次大戦後の冷戦構造の崩壊とともに大きな枠組みのタガがはずれ、世界中で国家間競争や民族、宗教の違いによる紛争があちこちでふえてきている気がします。情報手段の進歩により、ひとつのニュースがあっという間に地球をかけめぐり、政治であれ、経済であれ、生活であれ、予想外のダメージを受けるということも少なくありません。

 日本人は細やかで争いごとを嫌う国民であり、「微調整」が得意であったと思います。これはものごとの変化がゆるやかで、右肩あがりの成長をし、外圧の少ない時代には非常に有効的に働いたと思います。ところが、現在のように、変化が激しいわりには、経済成長もほとんどない、外圧だらけ、という世の中になると、微調整ではもう効かず今までの「しくみ」のおかしさが一挙に露呈しているのが現在の諸問題である気がします。

 政治については、国民生活からまったくかけ離れた世界の出来事のようになってしまいました。それでも税金を使って騒々しい選挙をやり、やはり税金が政治家の報酬となっている以上、知らん振りをしているのもどうかと思います。政治に無関心な人がふえればどうしても世襲議員や有名人議員がふえざるを得ず、本当の適材が出てこない気がします。

 大企業にしても経営者のほとんどは社員の昇格組です。会社の偉い人という形でおさまっていますが、その下で働く社員には選ぶ権利はありません。本来、その権利をもつのは株主ですが、株主総会も形式で終わってしまいます。その株主も多くは企業間の持ち合いであったり、ファンドであったり、特に個人投資家は売買益を充てにしているため、どんな会社かも知らずに売り買いを繰り返している人がほとんどでしょう。これでは、経営者、社員、株主とそれぞれが都合の良いことしか考えず、企業として必要な要素がかみあいません。日産のように欧米人の経営者が乗りこんできて解決してもらうしか方法のないところまで来ています。

 雇用問題は、年功序列主義をすてたところに留まり、能力主義の定義が決まっていない気がします。中高年というだけで悪者視されていますが、能力や意欲のある人はいくらでもいます。逆に経験が生きる職種はたくさんあります。新卒で社会経験がなくても潜在能力を秘めた人はたくさんいます。組織というのは人と人が有機的に結びついて初めて効果が2倍3倍となるわけですから、経営者や管理者がさまざまな能力を引き出せないような企業には未来がないと思っています。

 増えつづける犯罪も物質的な貧困ではなく、心の貧困さが原因ということを示しています。昔は「いかに立派な人間になり、社会へ貢献するか」というのが家庭、学校、社会を通じての共通テーマだった気がするのですが、すべてそのしくみがおかしくなっています。なぜなら、本来モノやサービスは人間の欲望、欲求をみたすために生み出されてくるわけですが、それを得るためにはお金が必要であり、いつしかそれをいかに稼ぐかの教育やお金重視の価値観になってしまったからです。 20世紀は戦争の世紀とも言われました。地球規模のより人間的な真の豊かさを求めて、まずはひとりひとりが真剣に考え、行動する。これが新しい世紀を歩み出すわれわれの使命感のような気がしてなりません。

2000.12.24

河口容子