[288]ホーチミン 光と影 涙と笑顔

 ベトナムの北部にある首都ハノイがこじんまりした政治の街とすれば、南部のホーチミンシティは旧宗主国フランスの香りを残す南国的な商都です。今回の出張で印象に残ったエピソードをふたつ、まさに光と影を書いてみたいと思います。
 光の部分、タンソンニャット国際空港の新ターミナルが日本の円借款で昨年 8月末からオープンし、年間 800-1,000万人の利用が可能なベトナムのみならずアセアンの表玄関にふさわしい近代的な空港に生まれ変わりました。飛行機の発着を示す電光掲示板の下にベトナム国旗と日本国旗のついた記念碑があり日本の ODAで完成したことがベトナム語、英語、日本語で書かれています。同行のクライアントは「こういうのを見ると嬉しいですね。日本人として誇りに思うし、良い税金の使い方じゃないでしょうか。」と言われました。日本としても厳しい財政状態からの拠出ではありますが、日本から援助してもらったことが世界中への自慢でもあるかのように感謝の念をきちんと形にして残してくれるベトナム側の姿勢にも心を打たれます。
 旧空港は薄暗く、スタッフも愛想がなく、免税店も華やかさがなく、まさに社会主義国の負のイメージそのものであっただけに、その変化率には目を見張るばかりです。パスポート・コントロールには相変わらず時間がかかりますが、環境が変われば人間も変わるのかスタッフたちも明るく立ち働いているように見えます。帰りに搭乗口のロビーのラベンダー色の椅子に腰掛け、滑走路の青い誘導灯が熱帯の景色に涼しげな光を並べているのを見るとまるで他所に来たようです。クライアントとベトナム生産を模索し始めて 2年、やっとトライアルの発注ができた安堵感、それはクライアントにとっても新しい発展の第一歩であり、ベトナムの工場で働く人たちのやさしい笑顔がますます輝く第一歩でもあります。旧空港の様子やこの仕事に関する経緯が頭の中をぐるぐると絵巻物のようにめぐり涙が止まりませんでした。
 影の部分。私たちのホテルの隣のビルのシャッターの前で眠っている子どもたちを夜発見しました。母親らしき人もそばにいるのでストリート・チルドレンではなく、ここをねぐらにしている一家なのでしょうか。子どもたちの手足は泥で汚れていましたが衣服はこざっぱりしていました。物乞いをするわけではありません。もっと大きければ先週号に出てくる工場に頼んで雇ってもらうのにと残念でたまりませんでした。
 翌日、夕方食事へ行く途中同じファミリーを発見。全員着替えをしていたのでそれなりにケアはされているようです。ベトナムの失業率は高くありませんが、急速な経済発展とともに物価も急上昇しています。低賃金の仕事しかない、あるいは片親の場合は落ちこぼれていく可能性が高いかも知れません。クライアントは「お金をあげるのは好きじゃないから、残っているサンプルをこの子たちにあげよう。持って帰ってもしかたないし。」と 4人の子どもたちに渡しました。私は「たぶん彼らはどこかで売って換金するでしょうけれど、がっかりしないでくださいね。」とクライアントに言いました。案の定、食事の帰り、彼らの横を通ると商品は跡形もなく消えていました。それでも母親と子どもたちは私たちに百万ドルの笑顔で会釈をしてくれました。子どもたちは商品を自分のものとして楽しむ余裕はなかったけれど、きっと何日かはそのお金で安心して過ごせるかも知れない、そう思うと心に清々しい風が吹いた気がしました。
河口容子
【関連記事】
[287]ホーチミンで韓国人と仕事をする
[210]ホーチミン 月餅に願いを

[287]ホーチミンで韓国人と仕事をする

 ベトナムのホーチミン市とその郊外のビンズオン省にクライアントと一緒に行って来ました。私の出張の準備はまず留守中母が買い物に行かなくてすむように食材をはじめ消耗品を買い整えることから始まります。出張のスケジュールの組み立て、航空券やホテルの予約、客先とのアポイント取り、これはもちろん私の仕事です。
 今回の心配な点は同行するクライアントの担当者が3月に骨盤を骨折し松葉杖が必要なことです。いくら旅慣れている方とはいえ、ベトナムは初めてです。「あの時行かなければ良かった。」などと後々まで悔やまれる事態に陥っては私としても大変申し訳ないことです。突然思いついたのは、松葉杖は長尺物ですし武器にもなり得るので機内持ち込みの事前申請がいるのではないかということです。案の定、旅行代理店も「よくぞ、聞いてくださった。」という感じでした。ご本人も念のため医師の診断書を用意されましたし、この事前申請のおかげでチェックインもスムーズでしたし、ベトナムでは優先搭乗までさせてもらえました。
 今回行ったのは韓国系のぬいぐるみ工場の J社と P社です。クライアントはぬいぐるみを扱っているわけではありませんが、ぬいぐるみの技術が必要な製品群です。中国で数社提携工場を持っていますが、コストの上昇や一極集中を避けてベトナムでの生産を考えているのです。 J社というのは2008年 3月13日号「続 夢を紡ぐ人たち」に出てくる韓国人女性の工場です。直前にお母様が危篤でソウルに帰国されたのでしばらく会えないと思っていましたが、元気にホーチミンシティのホテルまで出迎えてくれました。彼女は毎月10日ほどをベトナムで過ごしますが、ご主人は大手日本企業に勤務する韓国人で出張が多く、中学生のお嬢さんも札幌の名門ミッションスクールに通っているので家族ばらばらです。家族内のコミュニケーションだけでも大変なのに、従業員のひとりひとりに声をかけ、きちんとお昼の給食を食べているかチェックする愛情深さには彼女の偉大さを感じました。
 聞けば、ホーチミン周辺に韓国系のぬいぐるみ工場は 7-8社あり、皆仲が良くお互いに下請けをしあっているそうです。これが韓国の中小企業が続々とベトナムに単独で進出できるひとつの理由でしょう。彼女のように定住せず、ベトナムに定期的に通いながら仕事をするケースも含めると10数万人の韓国人がベトナムにいるそうです。
  J社が設立後 1年も経過していないせいか、近代的な設備を持っているのに比べ、 P社は型紙作りの得意な韓国人社長が家族で定住して設立した工場。アセアンに良く見られる中小の工場でアットホームな雰囲気です。ぬいぐるみ製造そのものは衰退産業です。世界的に子どもはゲーム機などのおもちゃに流れ、ぬいぐるみの太宗はプロモーション・グッズとしての需要です。プロモーション・グッズのビジネスは大量受注は見込めるものの納期が短く、価格も厳しい。工場にとってはかなり辛くて競争も激しいビジネスです。日本では特殊なものを除いては絶滅したといってもよい産業です。だのになぜ韓国人は海外へ出て行ってまでその仕事を続けるのでしょうか。両社ともに韓国にもはや本社はありません。完全に国際化しています。彼らがいるからこそ高品質の商品を作ってもらえるので有難いことですが、日本人の国際化の遅れを感じざるを得ませんでした。
 商談も順調にすすみ、 J社には韓国料理、 P社にはベトナム料理をごちそうになりました。 J社の韓国人男性スタッフは乾杯のあと横を向いてビールのジョッキを飲み干した(韓国では目上の前では面と向かってお酒は飲まないのが礼儀)ので「今時の若い方はもう横を向いて飲まないと聞いたことがありますが」と言うと女性社長は「彼は躾がいい人ですよ。」そういえば初対面の挨拶でも右手首に左手をきちんと添えていたし、スモーカーなのに私たちの前では絶対吸いませんでした。こういう若い人のマナーの良さはビジネス面では特にすがすがしく好印象を与えるものです。
P社の Sさんが「ベトナムにはワニの料理がありますけれど」と言うので「ワニの肉なんて食べたくありません。ワニならハンドバックのほうが好きです。」と答えると皆さん大笑い。ベトナム女性管理職の Dさんがメニュー選びから食べ方までを伝授してくれましたが、 Sさんは香草が苦手。英語と韓国語を操りながらコリアンダーをお皿から箸でつまみ出すのに大忙しでした。
 会社員時代はなぜか韓国とはあまりご縁がありませんでしたが、これで私の2006年9月7日号「トインビーの予測」の世界の一員になれた気分です。
河口容子
【関連記事】
[280]続 夢を紡ぐ人たち
[272]中国の輸出規制策と日本の中小企業
[203]トインビーの予測