[258]アセアンからの食彩

アセアン諸国からの輸入品の代表選手のひとつが食品です。たとえば魚介類は中国からの輸入金額とほぼ同じです。野菜は圧倒的に中国からの輸入が多いものの、果物はアセアン諸国からのほうがはるかに多く、私たちの食生活を彩りあるものにしてくれています。今年もアセアンの食品展のシーズンがやって来ました。残念ながら今回はミャンマーからの出展がありませんでした。昨年は酢、キャンディー、ソバ焼酎、緑茶などが展示されていたのに残念な限りです。このイベントのための準備は数ケ月前に始まっていますので、日本では軍事政権に反対するデモがいきなり起きたかのように報道されていますが、実はその頃から不穏な動きがあったのではないかと想像しました。

ここ数年展示されるものを見ていて気づくのは原材料に近いものからどんどん加工度の高いものに変化していることです。また、パッケージや容器の精度やデザインもどんどん向上しています。会場でマレーシアの貿易開発公社の東京事務所長(マレーシア人女性)とお会いし、着任されたばかりなのでご挨拶をさせていただきましたが、 100円ショップなどからアセアンのビスケットやチョコレート製品への期待が高いそうです。
カンボジアの製品で目にとまったのは、月餅用のアズキや蓮の実のあん。昨年 9月の末に中国とベトナムに出張しましたが、仲秋節でいたるところに月餅のコーナーがありました。最近、ベトナムに駐在したての方にお聞きしたところベトナムでは仲秋節には親しい人に月餅を送るのが習慣で取引先に月餅を配るのに1週間を費やしたそうです。これでやっと月餅コーナーがあちこちにある理由が判明しました。

タイの製品ではドライ・フルーツやナッツなどをチョコレートでコーティングしたお菓子。 7-8種類のフレーバーがあり、ちょっとしたギフトに好適なパッケージに入っていて花をモチーフにしたデザインがとても美しくヨーロッパ諸国にも輸出されていると聞きます。似たようなコンセプトのお菓子をイギリス製で見たことがありますが、パッケージデザインはタイのほうがはるかに素晴らしいと思いました。そして「天然」が売り物のジュースにボドルデザインがこれまた素晴らしいものがありました。タイは工業デザイン面では非常にすぐれた国です。

フィリピンの製品ではココナツ酢でトウガラシの入っているものがあり、びんの口にトウガラシがぷかぷか浮いており、入れたら自然にそうなったのでしょうが、あたかも計算されたような美しさを感じました。

私のシンガポールのクライアント、漢方薬の老舗も出展しています。肉骨茶(バクッテ)という伝統的なハーブとスパイスからできているもので、肉の煮込み用に使います。燕の巣もあります。燕の巣はマレーシア、インドネシア、ベトナムでしか採取されません。竹取物語でかぐや姫が求婚者の貴人たちにつきつける難問のひとつに「燕の持っている子安貝」というのがありますが、実は竹取物語のルーツはベトナムにあります。日本はアジアの端に位置し、各国から文化を取り入れ独自の文化に熟成させていったのだろうと思いますが、その一例が世界一豊かな食文化でしょう。

河口容子

[257]続 華僑のDNA

2003年12月18日号「日本人の知らない日本人歴史 (2)」に出てくる在日中国人 3世の知人と久しぶりに連絡を取り合いました。彼は元取引先の担当者でしたが、今は兵庫県で実家の中華料理店を継いでいます。初めて会ったのは数年前ですが、その際、別に黙っていてもいいのに彼のほうから中国人で中国籍であることを切り出しました。私は「日本人は閉鎖的だからお祖父様やお父様はさぞ苦労されたことでしょう。ごめんなさいね。」と謝った記憶があります。「祖父や父は大変だったかも知れませんが、おかげで僕は別に何の差別もなく育ちましたし、日本の大学へも行けたし、福建にいたままではこんな良い生活はできなかったと思います。」「今は中国は急成長しているから福建にいても大金持ちになったんじゃないの?」「そんなことありません。残っている親戚を見ればわかりますから。」と笑いました。
彼は両親も話せなかった中国語を日本で習い、奥さんは上海の出身です。新婚当時は上場企業の食品メーカーの寮に住んでいたそうです。そのメーカーに勤務していた女性の管理職の知人がいますが、学閥のなかなか厳しいところで、ましてや国籍の違う夫婦、奥さんは当時日本語もあまり話せなかったので苦労したのではないかと聞くと「そういう中だったからこそ、嫁さんは日本語や日本の習慣が身についたと思います。その点は人と上手にやっていけるタイプだから。」彼は日本で生まれ育っているせいもあり、日本人にしか見えませんが、内面は実にしっかりとしていて、前向き、感謝の心を常に忘れません。現在お店のリニューアルを計画中でそれに伴い店名も変えるようですが、英文名は私も一緒に考えました。
一方、2004年10月 1日号「変わり行く華人社会」と2005年 6月30日号「華僑の DNA」に出てくるインドネシアからニュージーランドに移住した華人の友人にも変化が起きつつあります。息子が大学を卒業し働き始めたがオーストラリアに移住するというのです。幼いときに両親と弟妹がオランダに行ってしまい、インドネシアでひとり祖母に育てられた彼は友人を大切にし、奥さんと子ども二人はまるで宝物のようでした。それをいくら近いとはいえ他国へ惜しげもなく出すというのはまさに華僑の DNAとしか思えません。
彼のニュージーランド移住物語も紆余曲折があります。まず家を2軒買い、1軒は家賃収入源とし、もう1軒も半分貸しています。これで新天地での生活費には困りません。次にピザ・レストランを始めたものの店舗物件をめぐるトラブルに巻き込まれ挫折。ジャカルタに残したビジネスは何とか順調に行っているようで「いざとなったら故郷に帰れるよう足がかりを残すように」という私のアドバイスはどこかで生きたのかも知れません。ニュージーランドで始めた貿易の仕事は「もがき、あがいている最中」とのことで気持ちの余裕のなさがメールの行間ににじんでいる気がしました。別に事業に失敗したわけでもないのにジャカルタでのセレブな暮らしをかなぐり捨て、50歳を目前にしてゼロから出発しなおそうとした本当の理由は何だったのか。繊細な心遣いと優しい面差しの彼からはそんなたくましさがどこに潜んでいるのか想像もつきません。彼はインドネシア華僑の 5代か6代目ですが、華僑の血が騒いだのでしょうか。
河口容子