[210]ホーチミン 月餅に願いを

 信頼できる取引先を得たという共通の思いが黙っていても私たち3人にはあり、帰りの車の中ではおしゃべりに花が咲きました。工場の運転手さんに申し訳ないとは思いつつ英語も通じません。それでも楽しそうな私たちも見ながら最初の微笑みを忘れずに彼は1時間半ハンドルを握り続けてくれました。無事ホテルの前に着いて一斉に差し出された握手の手をびっくりしたように順々に握りながら、うなずくように何度もお辞儀をしてまたドンナイへと戻って行きました。
 午後3時。今回の出張もあとはホーチミンの街中を見て夕食を食べるだけとなりました。ホーチミンはバイクだらけの街です。ハノイに比べ大きな都市ですのでさすがに自転車の人はあまりいません。信号がほとんどないので通りを渡るには少々勇気と反射神経が必要です。「東京で自転車に乗りなれているので平気」とスタスタ走る私にクライアントのふたりが「私たちは田舎もので信号とクルマ社会に慣れていますから、こんなこと、ヒャーッ」っと奇声をあげながら走ってついてきます。
 黄色い花をつけた街路樹を発見。ミモザの花でしょうか。すかさずデジカメ。「 5-6年前にホーチミンに来たことがあるのですが、乞食がいなくなりましたね。」とクライアントの社長。「今は外国からの投資ブームですから、失業者もほとんどないのではないでしょうか。」と私。「そのとき、小さな子どもの乞食がいてね、背中に赤ちゃんを背負っていたんですが、じっとしたままで、泣きもしないし、動きもしないんです、変でしょう?そのとき、案内してくれた人が言うには歯磨き剤を食べさせて神経をマヒさせて子どもの乞食に背負わせるのだそうです。もちろん、子どもの乞食のきょうだいなんかじゃありません。あわれっぽく見せるための小道具です。」「本当だとしたら悲しいお話ですね。香港の出発ロビーにアジア人の少女がいたのですが両親は西洋人だったのにお気づきでしたか。」「いえ、気づきませんでした。河口さんはそうやって僕たちが見過ごすものにたくさん気づいていろいろな事を考えるのでしょう?」「ええ、少女は本当に幸福なのだろうかと。」「もちろん幸福に決まっていますよ。」クライアントの社長は私の心配をかき消すように言いました。「そうですね。両親に大事にしてもらっていましたから。」会社員の頃にも取引先に「観察力と洞察力のおばけ」と言われたことがありますが、私の仕事にはこのふたつの力は不可欠ですし、リスクから守ってくれるものでもありますが、気づきすぎてやけに悲しいことや失望することが多いのも確かです。
 主に外国人をターゲットとしたショッピングモールへ行くと品揃えの多さにびっくりします。案の定、日本人の女性の買い物客(仕入れかも知れませんが)の会話があちこちから聞こえてきます。モールの外に民族楽器を持った赤いアオザイ姿の女性がふたりいました。音楽はスピーカーから流れっ放しで彼女たちはモデルといったところですが、私のデジカメのためににっこり笑って楽器を弾いているふりをしてくれました。
 夕食は朝から決めていたホテルの裏の海鮮料理店です。私の部屋からエレベーターにむかう廊下の窓から見つけたものです。締めくくりに月餅を食べようということになりました。ベトナムでも中国同様あちこちで月餅が売られていて食べずに帰るのは何となく惜しい気がします。ところが、英語でムーンケイクと言っても何か変なものを持って来られ「違います、違います。あれよ、あれ。」と月餅のコーナーを指差すと、今度はウェイターが手招きするのでついて行くと、キッチンからココナツを取り出し、この上にソースをかけ、などど違うものを売りつけようとします。月餅にこだわる私に根負けしたウエイターは月餅コーナーに私を連れて行き、中に入っている餡の説明をしてくれました。「じゃあ、これひとつお願いしますね。悪いけれど三つに切っていただけません?もうおなかがいっぱいなので。」ケチな外国人と思われたかも知れませんが、お店のスタッフ全員が見守る中でウエイトレスの若い女性が包丁で見事にパイ型に3等分したのは私たちもびっくりでした。
 「満月にお祈りをすると願いごとがかなうと言いますよね。中秋のお祝いですから月餅に願いごとをしましょう。」と言うと「みんなの願い事がかなうといいね。」とクライアントの社長。「かなっても 1/3ずつですよ、きっと。」と私。
  OEMメーカー探しを始めて早9ケ月。もちろん毎日こればかりやって来た訳ではありませんが、ホテルの自室に戻ると安堵で涙が出そうでした。不安と焦燥、良い相手が見つからなかったらクライアントに申し訳ないと思う日々の連続で、出発前にはひどく体調をこわし、出張中も夜中に何度も目が覚めるという毎日だっただけにこの夜は10時すぎに棒のようになって眠りにつきました。
河口容子

[209]ドンナイ 雨季の終わりのスコール

 東莞でひと仕事終えた私たちは、香港のチャクラプコック空港のイタリアンで遅めのランチを取り、ホーチミンのタンソニヤット空港に着いたのは夕方 6時前でした。ここでは3つの通りに面したコロニアル・スタイルの有名ホテルに投宿。現在5つ星を目指して改装中で不便はあるものの一度泊まりたかったホテルです。東館と西館をつなぐ長い廊下がありますが、片側はベトナム名物の漆絵がずらりとかけられ、もう片方はモノクロのベトナム人の写真がずらりとかけられています。あでやかな漆絵と対象的なモノクロ写真、ひとりひとりの人生まで写しこまれているような写真たちが印象的でした。
 翌朝は、ドンナイの工場から工場長がホテルまで迎えに来てくれました。ドンナイ省はホーチミンの東隣で、ホーチミンからハノイへと1,600km 続く国道1号線に沿っての1時間半のドライブです。サイゴン川を渡り、ドンナイ川も渡りますが、いずれもメコン川の支流です。支流と言っても川岸にはコンテナが山積みされています。「どうしてこんな所にコンテナがたくさんあるのですか?」「川から積みだすんですよ。もちろん、大型船は入れませんが。」と工場長。あとで調べると5,000 トン級の船が入れるそうです。島国ニッポンの住民としては川を使ってコンテナを輸送するなど想像もつきませんでした。
 工場は2階建てで、1階は体育館のように広い工場、吹き抜けになっていて建物の一部だけに2階があり、事務部門や商談室に充てられているというアセアンに多いスタイルです。商談中に相手の声が聞こえないくらい雨が轟音をたてて降ってきました。ベトナムはまだ雨季で、1日1回は必ずスコールがあります。工場長によれば、まだこれでも雨季の終わりに近づいたので雨量が少ないほうで、盛りには昼でもライトをつけて車を運転するほど真っ暗になるそうです。それでも雨が降るだけ涼しく、乾季は暑くてたまらないといいます。工場は国道1号線より若干低く、ときどき浸水してしまうのだとか。昔観たフランス映画「ラ・マン(愛人)」にもスコールで家が浸水し、家族で水を掻き出すシーンがありました。
 工場周辺には良いレストランがないのでと、工場長は台湾企業が投資しているゴルフ場を有したリゾート・エリアまで昼食に連れて行ってくれました。途中整然と植えられた林の中を通りぬけていきます。北欧で見た林を思い出させる実に美しい緑です。樹液を採るためのカップのようなものが1本1本につけられているのを見つけ「ゴムの木ですか?」と私。「そうです。この辺は多いですよ。」これまたかつてのカトリーヌ・ドヌーブの映画「インドシナ」の光景とオーバーラップしました。
 ゴルフ場のレストランのメニューは日本、韓国、中国といろいろでお客さんたちの国籍が容易に想像できます。私は韓国インスタントラーメンをトライしてみました。工場長が「日本人には辛いですよ。」とアドバイスしてくれましたが、確かにスープは私には辛くて飲めないものの麺はインスタントとは思えないほど。工場長はざるそば。「韓国の方はざるそばがお好きなんですね。」と昨夜のディナーの話をすると、「あの韓国料理屋にざるそばなんてありましたか?韓国人はだいたい日本料理が好きだと思いますよ。でも高いからしょっちゅうは食べられませんけどね。」インドネシアでも韓国系の工場を何社か訪問したことがありますが、韓国の方々は日本人に対しとても親近感を持って接してくれるような気がします。異国で出会ったお隣さんといった感情なのでしょう。
 午後から工場のラインごとに見学をしましたが、ベトナムは中国にくらべて人件費がもともと安い上に福利厚生部分は国家負担なので投資する側としては非常に助かるようです。ただし、解雇はできず長く勤務すればベースアップはしていきます。この工場では勤続5年を越える労働者が増え、ちょっぴり頭が痛いものの、東莞の工場よりは品質が良いことを工場長は誇りにしていました。
 帰りは大きな黒い瞳とやさしい笑顔が印象的なベトナム人の運転手さんが私たちをホテルに送ってくれることになりました。工場を出る際は事務部門のスタッフが全員起立してお辞儀をしてくれるあたりはちょっと中国とは違う景色です。車の窓をあけ「カムサハムニダ(ありがとうございます。)」と挨拶をすると工場長は雨もやみかけ熱帯の陽射しが戻った中で最敬礼で見送ってくれました。
河口容子