[365]アセアンへの投資 いよいよ選択の時代へ

 アセアン10ケ国のうち日本からの投資と言えば今はベトナムがブームのようです。日本人の特徴として「バスに乗り遅れるな」とばかり、集団で同じ国に出かけて行きます。中国もそうでした。確かに一斉に同じ国に行くと裾野産業や物流業者などサービス業も進出してくれるので便利な面もありますが、度が過ぎると進出国内での競争が激化します。
 今までアセアン諸国への投資セミナーというと当該国の政府からゲストを迎え投資のメリットや誘致したい産業について講演、プラス日系企業の進出経験談というパターンで国ごとに行われてきました。複数国でそろって行われたのが2008年 1月24日号「5ケ国外相がそろったメコン地域投資セミナー」と2005年12月 1日号「南の島へのあこがれ BIMP-EAGA」くらいのものです。
 最近になってやっと「比較して自社に最も適した国を選ぼう」というテーマのセミナーが開催されるようになりました。この現象は「そういうニーズがふえた」「各国への進出例がふえた」「各国がそれぞれの強みを上手にアピールするようになり、受け入れ態勢も整いつつある」証左であり、日本とアセアン諸国それぞれの国際化が進んだと思って良いのではないでしょうか。
 私たち貿易人の通念とすれば、「遠い所はコスト安だが運賃と日数がかかる」「コストの高い国は裾野産業も発達しており部品調達が安易、安ければその逆」です。たとえば特殊な素材や部品を寄せ集めて作るファッション雑貨などは中国なら地場で調達が可能ですが、ベトナムではまず無理です。組み立て産業なら人件費は比較的高くても調達力でタイがまだ有利です。そのタイの下請けとしてラオスが有力です。メコン川を渡っただけで人件費が 1/3になり、タイとは文化が似ているためタイ人の管理職をラオスに派遣することが可能です。そうすれば日本人駐在員も削減できダブルでのコスト削減につながります。
 少し驚いたのはカンボジアの繊維製品の価格勝負はそろそろ難しくなりつつあるそうです。思えば、会社員の頃スポーツウェアをカンボジアから輸入し始めたのは10数年前です。大量に生産されるものなら裁断した布を送って縫製をしてもらうだけですから、カンボジアからさらに安い所へ移って行く時期なのでしょう。比較的習熟が簡単で女性の職業の確保にも縫製の委託は途上国にとって経済の底上げに本当にありがたい仕事だと思います。現在、カンボジアでは官民で農業プロジェクトが行われているようです。
 ミャンマーについては「眠れる獅子」状態だと思っています。労働力は圧倒的に安いものの日本まではマラッカ海峡を渡らねばなりませんので日数がかかります。また電力などインフラ面でも問題が多く、為替レートが二重価格というのも困りものです。
 インドネシアは人口2億数千万人をかかえる資源大国かつアセアンの盟主でありながら地盤沈下した感があるのは、1970-1980年代の投資ブームが一巡したからとも言えます。私自身はインドネシア華僑とのビジネス経験が長いのですが「インドネシア華僑はユダヤ人よりお金に厳しい」「インドネシア華僑とビジネスができれば世界中で通用する」とよく聞かされました。そのせいか後日イスラエルの方々とビジネスをした時には天使のように思えました。
河口容子
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[358]遠くにありて思うもの

  9月 3日にインドネシアジャワ島バンドンの近くでマグニチュード 7を超す地震がありました。2008年11月 6日号「マナーブームと可愛げ」でふれたニュージーランドに住む華人系インドネシア人のB氏は夫妻そろってバンドンの出身です。バンドンは第 1回のアジアアフリカ会議の開催地と教科書で習いましたが、高地で比較的涼しく、スカルノ元大統領の出身地でもある事からインドネシアでは「カッコ良く」聞こえる所のようです。
 久しぶりにB氏にメールを書き親類やジャカルタにいる彼のビジネスパートナーのE女史(彼女はこのエッセイの0号「アジア人から見たニッポン」の主人公です)は大丈夫かとたずねました。
 「返事が遅れてごめん。皆無事だけど、いつも犠牲になるのは貧しい人ばかり。ジャカルタでは高層ビルの壁に亀裂が入ったらしい。母が今オランダから来ていて今回は 2ケ月ほど滞在する予定なんだ。10月には息子が結婚するんだよ。」事情は聞いたことはありませんが彼は幼い時に両親がオランダに行ってしまい、ずっとバンドンで祖母に育てられたと聞いています。彼の母親は 2年に一度インドネシアに帰って来、彼もオランダを年に 1度くらい訪問していますが、どんな気持ちなのだろうか、複雑な思いがあるのでは、と察します。
 「ご家族の皆さんに心からお祝いを申し上げます。お母様はさぞお喜びでしょうね。お孫さんが結婚されるのですもの。生まれてから家族がふえた経験が一度もない私はうらやましいなあ。」 「きみは僕の家族みたいなもんだよ。都合がつけば結婚式に出てくれない?みんな喜ぶから。」私が被爆者の家族である事や幼いときから家族を失い続けた事を知っている彼ならではの優しい一言です。
 「もうきみだけだよ。初めて会ってからずっと連絡を取り合っているのは。日本関係ではいっぱい友達もいたのに。S氏とJさんはいまだに消息もつかめない。」実はB氏がNo.2を務めるインドネシアの華僑財閥系のメーカーを紹介してくれたのは日本人のS氏でした。JさんはS氏の奥さんで華人系インドネシア人、B氏の元部下です。何とS氏はB氏の勤務していたメーカーに2000万円ほど未払金があるまま姿をくらましたのです。S氏と知り合ったのはB氏より前ですが、ユーモアのセンスのある明るい人でした。インドネシアの事、専門分野などについて気さくに教えてくれたものです。ところがいつ頃か不審な言動が雪崩を打って出て来ました。私は信頼していたS氏を警戒するようになりました。
 「ねえ、S氏とケンカでもしたの?何か変だよ。」人の心を読みとる天才のB氏がそう言った事があります。S氏とJさんは 2ケ月に 1度はインドネシアに行き、B氏のオフィスで一緒に仕事もしていましたし、彼ら 3人で米国へ一緒に出張するくらい親密でした。私は自分の懸念をB氏に話そうかどうか迷いましたが、何一つ確証がなく黙っていることにしました。私の一言で彼らの仲がぎくしゃくするのを恐れたのと、Jさんがいる限り、彼女の故国であり、元の職場に対し詐欺まがいの事をするとは考えられませんでした。
 私の事を「洞察力と想像力のおばけ」と呼んだのはSさんですが、少なくとも初めて出会った頃のS氏は少々お調子者のところもありましたが、善良な人間でした。本当に人間というのは変われば変わる恐ろしい生き物だとつくづく実感したのがこの事件でした。B氏がいつまでも彼らの事も話題にするのも、恨みではなく、彼らを変えた「何か」をつくづく残念な出来事に感じているからに違いありません。
 群れてはしゃぐのが苦手な私にとって友とはB氏のように遠くから静かに生きざまを見守りあうもの、信じあうものです。
河口容子
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