アセアンの国から -2-

 マレーシアの後はインドネシアです。人口2億人を超す世界最大の群島国家です。マレーシアが小型国家で民族融合を活力源としているのに対し、こちらは階層社会です。主として、官僚や政府系企業のインドドシア人と華人のビジネスマンから成る富裕層と貧困層に2極分化しています。もっとも最近はジャカルタをはじめとする大都市圏では中産階級もふえてきました。上下関係がきびしく、年齢性別にかかわらずそれは態度で一目瞭然。首都ジャカルタは1000万人都市で、いろいろな地方(島)から人が集まって来ますが、現地の人には苗字を見ただけで「ジャワの人」「ロンボクの人」と出身地がわかるらしく、この出身地も「都会っ子」と「田舎者」的なニュアンスを含んでいるようです。

 友人である中国系ビジネスマン二人と久しぶりに食事をしました。二人とも分野は異なりますが、国際派のビジネスマンです。ひとつの話題は日本の悪口。理由は何もかも値段が高い。英語が通じないこと。私も時々自分をもし外国人だったらと置きかえて東京を歩いてみることがありますが、とても外国人ひとりでビジネスにやって来てどこかへ行くというような配慮がなされていません。スパイラル・デフレとはいえ、ホテル代、レストランなどサービスのクォリティを求めればとんでもなく高い。こうやって日本はどんどん世界から見捨てられていくような不安さえおぼえました。

 もうひとつは賄賂の話。この国は金銭決着が横行しているので有名ですが、日本のややこしい贈収賄事件よりシンプルでストレートなのでわかりやすいと彼らを笑わせました。ジャカルタの交通渋滞はひどく、一方通行をはじめ道路規制はきびしいのですが、遠回りするより有料の駐車場をお金を払って通りぬけていくという方法を取ります。現地でもささいな金額ですので、時間やガソリンの無駄を考えるとこれも理にかなっていると苦笑してしまいます。

 私自身は 5万ルピア札が変わったのを知らず、新しいお札に替えてもらうためバンク・インドネシア(中央銀行)に出向くはめになりました。ところが、すでに窓口は終了。一緒について行ってくれた政府機関の女性管理職が守衛に交渉してくれた結果、何と守衛が持っているお札と交換してくれたのです。ちゃっかり、手数料として約 8%目減りして戻ってきたところが何ともこの国らしく、私の所有していた合計35万ルピアは彼らが常時持ち歩く金額ではないのにも拘わらず、すぐポケットから出てきたのが何とも不思議なところです。しかし、四角四面に「締切」と言われれば、旅行者の私にとっては時間の制約があり、ただの紙きれになってしまうおそれもあり、こういう柔軟性は「ありがたい」とも言えましょう。

 ホテルでブュッフェ・スタイルの朝食を取った時のことです。ある西洋人女性が和食のコーナーで割り箸をまず取り、逡巡していました。どれを食べたものか迷っているのか、それとも大皿から取り皿へ箸で取り分ける自信がなかったのでしょう。横で料理の説明をしてあげると、漬物に興味がありそうだったので取り分けてあげました。しばらくして、その女性が私の席にわざわざやって来て「ありがとうございました。おいしかったです。」と丁寧にお礼を言ってくれました。最近の日本女性にこんな礼儀正しい人はいるかしらと、その愛らしい笑顔に心なごむ思いでした。

2002.04.04

河口容子

豊かさとは何か

 昨年ジャカルタに出張した時、華人のビジネスマンに日本の財政赤字の話をしました。彼には初耳だったらしく「日本が東南アジア諸国をいろいろ援助しているが、お金がないのにどうしてできるのか」と素朴な質問を投げかけてきました。「日本には資源がなく、工業製品を輸出している国だから外国と仲良くしていかねば生きていけない」というのが私の答えでした。そして「財政赤字は国民ひとりひとりが背負っていかねばならない」ことを。私の脳裏には自転車操業で今にも倒れそうな会社のイメージが浮かびました。

 日本から見ればインドネシアは貧しい国でしょう。実は私はそうは思いません。彼らは売るほど資源を持っています。国土も日本の5倍、人口も2億人を越しています。交差点で車が止まると一斉に新聞やフルーツを手に物売りの少年がかけよってきますが、彼らの収入は1日50セントほどだそうです。でも皆瞳を輝かせ、色鮮やかな衣服を熱帯特有の景色に溶け込ませながら毎日元気に暮らしています。寒さをしのぐ必要がない、自然の実りが食物として期待できるからでしょう。南国らしい楽天性という言葉だけでは片付けられないほど資源国の底力を私は感じました。

 一方、日本は現代文明の恩恵を享受しているかのように錯覚しますが、ひとたび輸入が止まれば電気やガスも使えない、食べるものすらほとんどなくなります。日本のお家芸であった製品輸出もアジア諸国の勢いに押されがちです。今さら自給自足の生活に戻ろうにも自然は崩壊し、人々には技術も根性もないといった有様です。私たちは脆弱な基盤の上に立っているということを忘れて「繁栄」の文字だけを追って突っ走ってきたのではないでしょうか。

 「アメリカがくしゃみをすると日本が風邪をひく」とか「アメリカで流行ったものは何年か遅れて日本にやって来る」とよく言われますが、アメリカは世界の大国です。国土も広ければ人口も多い。世界有数の農業国でもあります。資源もあるし、貿易に頼らなくても自国だけで経済は成り立ちます。いわば質、量とも兼ね備えた人です。それに比べ、日本は自分のことはすっかり忘れて他人のことばかりきょろきょろと気にしている人のようです。良いものを素直にどんどん受け入れる姿勢は日本の長所でもありますが、最近は深みに欠けるきらいがあります。

 敗戦から見事に世界の目を驚かせるほどに立ち直った日本の原動力は、日本の脆弱さを認識した上での勤勉、謙虚、礼節といった美徳であったろうと思います。そしてこの繁栄を牽引してきた方々は現役を去っていきつつあります。成人式でサルのように暴れている青年たちを目の当たりにして、半世紀間の努力が実ったあとの奢りによる堕落の象徴にしか見えませんでした。

 ある大学教授は「いくら財政赤字がふえたところで国は会社のように倒産はしません。国土があり、国民がいる限りその国は存在するのです。」とおっしゃいました。倒産する心配はないものの、再就職も失業保険もないのです。日本国民として日本に居住する限りひとりひとりが責任を負っていくのです。世界の一員としてなすべきことは何か?という議論ももちろん大切ですが、自国がどんな国であるのかも見つめ直すべきです。

2001.01.26

河口容子