[352]続 マリンドゥクエに降りた神

先々週号「マリンドゥクエに降りた神」を読まれた宮城県の Kさんからメールを頂戴しました。「東南アジアの人々の暮らしを一人でも多くの日本人に知ってもらえれば」と Kさんから内容の公開につき快諾を得ましたので今週はこの無名に近いフィリピンの小さな島の話を書きたいと思います。
Kさんは2008年 6月と2009月 1月と 2度にわたりマリンドゥクエへ堆肥の作り方を教えに行かれました。東北大学に国費留学している同島出身の女性の要望によるものでした。以下、「」内は Kさんのメールをそのまま引用させていただいたものです。
「まさにカルチャーショックでした。私は昭和20年の生まれですので、大東亜戦争後の苦しい生活は子供心に覚えていますので、昭和20年代の日本を想像していきましたがまさにぴったりでした。とくにショックだったのは、マリンドゥケ島は人口が21~22万人の島ですが、訊くところによると工場らしい工場はほとんどなく、産業といっても農業しかなく失業者が溢れかえっていることでした。
産業基盤のないところに貨幣経済が持ち込まれることのみじめさを、この身を通して感じざるを得ませんでした。公務員の給料も月 12000(1ペソ約2円で換算)ペソくらい、日雇い労務者の日当に至っては 250ペソ~ 300ペソくらい、それでも仕事はないのです。男の仕事といえば農業・漁業(その日暮らしの生活)でなければ、ジプニー(トラックを改造したバス)やトライセクル( 250CCのバイクにサイドカーのようなものをつけたもので、5~8人くらい乗るのは当たり前)の運転手をして日銭を稼いでいます。トライセクルは所有者から1日単位で借り1日 300ペソ(約 600円)をはらい、売り上げの残りの中からガソリン代を払い、最後に彼らの賃金が残ります。それでも仕事にありつけなければ、ぶらぶらしているしかないのです。女性は市場で日用品や食料を売ったり、道ばたで自分の家をお店に改造しおなじようなものを売り(子供相手の商売も多いようです)生計を何とかたてているようです。必然的に女性の力が強くなるようで、男性も台所仕事をやっているようです。フィリピンで女性大統領がでてくるのもうなずけます。
食事が粗末なので糖尿病が多いのは意外でした。暑いので味が濃くなるのと、お金がないので砂糖や塩を多く使うからではないでしょうか。国費留学した女 性の母親も今年1月に片足を糖尿病で切断しました。 また、こんなこともありまた。その女性について病院にお見舞に行ったときのことです。ある母親が生活が苦しいので、2000ペソで子供を引き取ってくれと懇願していました。一夫婦に子供が平均5~6人くらいはいるようです。そのような家族が平均8畳くらいの一軒家(一部屋ではありません、一部屋で一軒という家が多いのです)に雑魚寝をしているのです。」
ゴミにあふれかえる日本と違い堆肥づくりも大変なようです。「そんな生活ですからお金はありません。堆肥をつくるといってもお金をかけることができないのです。生ゴミを利用しようとしても、利用するだけの量の生ゴミはでないのです。稲藁・米ぬかと草を利用した堆肥作りしかできないのです。行って見て分かったことですが、現地の人々には堆肥の重要性がまったく分かっていなかったのです。私もお金を工面して何度かマリンドゥケ島に 行く予定です。」
Kさんのメールはまだまだ続きます。次号はこの島に日本人の血を引く子どもたちがたくさんいるというお話です。

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河口容子

[224]続 マヨンの麓からの手紙 ~希望~

2007年 1月 7日号「待ちわびる便り」で書かせていただいたフィリピンのダラガ(ルソン島南部)の知人の事を覚えていらっしゃるでしょうか。昨年12月 1日の台風21号によりこの地域は泥流による大きな被害を受けました。私が出したお見舞いメールに対する返事がないので、そこから車で約 2時間のソルソゴン市にあるCさんにも問い合わせのメールを出しました。ダラガのPさんとソルソゴンのCさんはバッグの輸出メーカーで同業ですが親戚づきあいをしているからです。
まずソルソゴンのCさんから返事をもらったのは 1月 8日でした。ダラガは昨夏大噴火したマヨン火山の麓、一方ソルソゴンは海浜リゾートで被害が少ないと想像していたのですが、「心配してくださってありがとうございます。皆無事ですが、電気が使えるようになったのはちょうどクリスマスの前だったのでお返事が遅れてしまいました。Pさんや家族は大丈夫だと思いますが、連絡が取れていません。おそらく最も被害がひどい地域なのでインフラが復旧していないのでしょう。」そのあと彼女は最近海外からの注文が減っていること、他の業者も同じことを言うので中国に注文が流れているのではないか、などと仕事の話でしばらくメールのやり取りが続きました。
そして待ちに待ったPさんのメールが届いたのは 1月28日でした。台風から実に 2ケ月近くたった頃です。「メール本当にありがとうございます。ずっと返事ができなくて申し訳ありませんでした。ご存知でしょうが、ここダラガは台風により民家、工場、農地、そして人命さえも大きな損害をこうむりました。この周辺でも 500人以上が亡くなり、近隣の町ではいまだに多くの人が亡くなっています。新社屋と旧社屋が洪水にあい、原材料や完成品が被害を受けました。新しい倉庫は屋根が吹き飛ばされ、ここでも原材料や完成品が濡れてしまいました。電気も電話もずっと使えずビジネスが麻痺した状態が続いたのです。幸いにも今は復旧してこうやって連絡をすることができるようになりました。長い間ご心配をおかけしたままでごめんなさい。そして何より幸福なのは家族や私がこのような過酷な事態にもかかわらず怪我もなく無事でいることです。家族や会社のスタッフにかわり、お見舞いに対し厚く御礼を申し上げます。」数年前、東京で「歌舞伎を見たい」と言ったフィリピン・ビジネスマンたちに「歌舞伎は高いから僕がやってあげる」とその場で歌舞伎役者の真似をして皆を爆笑させた彼の姿のが頭にふと浮かびました。有能なビジネスマン、大家族の大黒柱であると同時に、常に周囲の人を楽しませる才能にもあふれたです。
「お返事をいただけたことが何よりうれしいニュースです。皆様があの災害から生きぬいてご無事なのを聞いて安堵しました。神のご加護によりオフィスやビジネスもすぐ元通りになる事でしょう。皆様健康に留意され、一刻も早く復旧されることをお祈りします。」そして、いろいろな所に問い合わせたものの詳細な情報がつかめなかった事を私は伝えました。
「相変わらず私に感動を与えてくれますね。私たちのことを大切に思い、気遣ってくれて本当にありがとうございます。私たちはいつも日本にも家族がいるような思いです。いつもいつも気遣ってくれて、あなたのような優しい友達がいる喜びを何と表現していいのか言葉がありません。そうです。こんなに暖かい家族や友人の心が支えてくれるのだから、すぐ復興しますよ。すぐ復興してみせますとも。ありがとう。ありがとう。ありがとう。イロイロ アリガトゴザイマス。」最後はローマ字の日本語で結んでありました。
人生にはいろいろ辛い、悲しい出来事があります。別に助けてくれなくてもいい、誰か励ましてくれる人がひとりでもいればどんなにうれしかっただろう、と思った事が私には何度もあります。自分の事を気にかけてくれる人がいるとわかれば頑張る勇気や希望がわいてくるからです。ところが、そんな時に限って「無視」や「拒絶」にあうのが現実で、「その人の正体見たり」と思うことしばしばです。ですから、困難に立ち向かう知人友人がいれば何の手助けもできない自分の非力さを嘆きながらもこうやって精一杯励ますことにしています。
河口容子