[293]夢への挑戦

ある日、香港のクライアントD氏から「確かデザイン業界とコネクションがあったと記憶するのだけれど手伝ってもらえますか」というメールをもらいました。聞けば、中国の某メーカーの商品群を洗練されたものにするために日本人のデザイナーを起用したい、できれば学生か若手デザイナーたちによるコンペ形式でイベント的な要素も取り入れたいと言うのです。D氏は40歳代前半で独立する前は米国系広告代理店に勤務していただけあり、英語力、行動力、スキームの組み立てがシャープで小気味良いほど、一方手土産を欠かさず相手への配慮も忘れないというアジア人の良さも兼ね備えています。
実は2002年から国際機関のお仕事で東南アジアをまわり始めて、日本の優れた工業デザインや製造技術を再認識し、アジアの途上国向けにデザイン・ビジネスが成り立たないか模索し始めました。2005年から続いているベトナムでのセミナーも「差別化ができるデザイン」を狙いとしています。「安かろう、悪かろう」の商品を皆が一斉に作っていれば、ベトナム国内での価格競争のみならず途上国どうしの価格競争となり、貧困のスパイラルになってしまうからです。
香港のビジネス・パートナーとは 2-3度いろいろな切り口から工業デザイン関連のビジネスを検討してきましたがいずれも実現に至りませんでした。私自身は「時期は必ずめぐってくる」と信じていました。瞬間湯沸し器と言われるくらい短気な私ですが、仕事に関しては異様に粘り強く、何年、何十年かかろうとも気にしない面を持っているのは仕事は一生続けるもの、放棄はできない、と幼い日から信じて疑わなかったからでしょう。  典型的な男社会の総合商社では「いくら学歴が良かろうと実績を上げようと女性というだけで二流だ」と言われた事があります。それなら急ぐ必要はない、どうせ遅咲きの花にしかなれないのだからと思い、男性の 2-3倍の努力と粘りがあれば人並みの商社マンとして評価されるだろうと単純に思いました。睡眠不足や食事が取れなくても効率が落ちないのは丈夫でなかったがゆえ省エネモードで動くノウハウを持っているからで「人間万事塞翁が馬」を座右の銘にしているのもここにあります。配属の運もありますが、営業担当者が定年までにあげるべき収益の 2-3倍を24年間で、そのうち 6年間は非営業にいたにもかかわらずたたき出せたのもこの信念と開き直りの賜物です。
私個人は一匹狼型の性格です。不思議なことに「組織力の河口」「自分はできなくてもできる人間を即座に集められる天才」とよく言われますが、仕事においてはフレキシブルかつパワフルなチーム・ワークが好きです。たぶん他人の長所を引き出すのが好きで、違う分野の方々と出会い新しいものを作っていきたい性格からなのでしょう。
この香港のD氏の依頼にも工業デザイナーH先生以下20人近くの若手デザイナー、製造面でのサポートを行なう別働隊と数日の間にチームが出来上がりました。 中国でデザイン・ビジネスを行なうには大きな意義があります。中国は偽物天国です。偽物を作れば手っ取り早く利益になります。デザインを起こし、オリジナルを作るには費用も時間もかかり、次には売れるかどうかというリスクも背負います。そこをどう決断し、理解してもらえるか。私の挑戦はまだまだ続きます。
河口容子

[280]続 夢を紡ぐ人たち

 「誠実」で「努力」する人を私は好きです。そして夢の実現を目指して日々精進する姿と出会うのは何よりもうれしい事で、思わず応援したくなります。
 先日お会いしたのは韓国人女性で日本に住んでもう 6年、日本市場向けの販促グッズの仕事を始めて14年になると言います。日本の顧客から注文を取り、中国の工場で作ってもらい、上海や青島周辺の工場は知り尽くしています。次はベトナムと出資者を募りベトナムに工場を作り、社長になりました。ベトナムに工場を作ったのはもちろんビジネスのための必然性ではありますが、「自分の工場を作るのが夢だった」そうです。ベトナムとものづくりが大好きな彼女は毎月10日ほどベトナムに滞在します。自分の思いを従業員に理解してもらってから定着率が上がったらしく、旧正月で郷里へ帰った従業員が友達を連れて帰って来てくれた事に目を細めて喜んでいました。成長著しいベトナムでは労働条件が少しでも良いほうへ人はどんどん流れていくのです。「今は大変だけれど、早く利益をたくさん出してあの子たちと楽しい思い出をたくさん作りたい。」女性経営者ならではのやさしさ、夢をふくらませていこうとする力強さに感動しました。
 香港のビジネスパートナーの会社に日本人男性がいます。板前さんですが、自分の店を持とうと香港に渡りましたが、仕入が難しいことがわかりビジネスパートナーの所有する日本食材の輸入会社に就職しました。まずは仕入ルートの勉強をと思ったようです。「毎日調理をしないと技術を忘れるようで不安ではありませんか」と私が聞くと「それは感じますが、トレンドは取引の中で見ているだけでもわかります。それに今やっている仕事はすべて調理すること、店を持つことにつながっているのですから、まずはマスターしないと。」と一生懸命貿易実務も勉強しています。本当に夢を持つ人のエネルギーは計り知れないものがあります。
 私の祖父は貿易商でした。敗戦までは中国から中東にいたるまで42ケ所に営業所を持っていました。天津の店の資産は当時の東京都の予算よりも大きい金額だったと言います。この話を香港のビジネスパートナーに昔話として教えたところ「何か証明できるものがある?政府筋に親しい人がいるから話してあげるよ。今の人民政府は証明さえできればちゃんと返してくれから。」「いいのです。私が儲けたお金ではありませんし、祖父たちは当時裕福に暮らせたのですから。中国の方々が有効に使ってくれたらと思っています。」「そう、それはありがとう。」香港のビジネスパートナーとの出会いと中国ビジネスは亡くなった祖父が導いてくれたもの、あるいは私の中の DNAが目覚めたとしか思えませんでした。その頃から「日本とアジアの中小企業の国際化」が明確な仕事のテーマとなり、「クライアントの夢」が「私の夢」と重なるよう努力をしてきたつもりです。
 祖父の会社は敗戦と同時にすべての海外事業所を失います。もともと国内の商売のウェイトが低かったために私が中学に行く頃倒産してしまいます。もう当時の栄華を知る人もこの世にはほとんどいませんが、私は運命的に祖父のたどった道、アセアン諸国へと足を踏み入れることになります。先日、昭和18年 4月 7日付けの大阪朝日新聞「仏印進出の日本商権」という記事を見つけました。前年の仏印経済協定の締結を契機に大量の邦人商社が一斉に渡航しその根をおろしたと書いてあり、もちろん祖父の会社の名前も出ています。65年前の日本もベトナム進出ブームだったわけです。65年の時を越えてベトナムに私が心惹かれるのも DNAのしわざに違いありません。
河口容子