[06]昭和の道路-昭和通り-
第6回
■昭和の道路-昭和通り-
私は東京市日本橋区本石町で生まれ、昭和10年に小石川区に引っ越ししたので幼年期はどうしてもそこが中心になってしまいます。
8才までは日本橋に住んでいましたが、記憶にあるのは昭和の初期に当時の東京市長だった「後藤新平」と云う人がもの凄く廣い道路「昭和道路」を作ったことです。その道路を造るために計画路線に住んでいた私達は一時的にバラックの仮住まいに住んでいたようです。「ぼくんち何時できるのかなぁ」と窓から眺めながら云ったことをかすかに覚えています。
この「昭和通り」は出来上がった時は何にも通りません。たまに馬車や牛車がトボトボと歩いている程度でした。自動車なんて殆ど通りませんでした。何しろ幅が40mで片側二車線で道路の真ん中は公園のような緑地帯で綺麗なものでした。
議会では「こんなにでかい道路を造ってどうするんだ」と後藤市長はつるし上げられたそうです。しかしそれから数十年経った現在を見ると後藤市長は凄い「先見の明」があったことになりますね。
此の昭和通りの本町3丁目の交差点の角に当時としては大きな煉瓦造りの8階建てのビルがありました。「大森ビル」と呼んでいました。此のビルには特別の思い出があるわけではありませんが、夏から秋口にかけて飛んでくる「赤トンボ」の数が凄かったんです。
此のビルの前の歩道に竿に網を付けてかざしているだけで大量の「赤トンボ」が入って来るんです。次から次へと大変な数で半端なものじゃありません。此のトンボ達は何処へ行くのかなぁ?と考えたりしました。此の当時はなじみのトンボは「塩からトンボ」と「麦わらトンボ」はざらにお目に掛かっていましたが、少し小振りだけれど真っ赤なトンボは滅多にお目に掛からないものでした。東京のど真ん中の日本橋でこんな光景もあったんです。