[26]貧富・貴賤・職業の差別(2)

2019年3月21日

第26回
■貧富・貴賤・職業の差別(2)
《ばた屋》
これは「拾い屋」とも云いましたが、当時は一戸に必ずゴミ箱がありました。これは道路端に縦横1mくらいで奥行きは30cmくらいで、真っ黒なコールタールを塗ったものでした。ゴミの回収に来る馬車は、大八車みたいな車の上に大きな箱を積んだものでした。掛かりの人がゴミ箱の前蓋を開けて二枚の板でかき集めて車の箱に入れて行きます。
これが来ない日は「拾い屋」・・つまり乞食のような人が、ゴミ箱の上の蓋を開けて中を見ています。だが此の当時はどこも捨てるゴミなんかありません。ゴミ箱はいつも空っぽの状態です。入っている物は家の人が道路を掃除した泥だの木くずくらいのものです。だから現代みたいに烏が残飯をあさるなんて風景は見たことはありません。大きな枝や木の葉は子供達が焚き火をして、芋だの栗だのを焼いて食べますから、捨てる物は何も無かったのです。
《道路の掃除屋》
此の当時は自動車は大通りを走る乗り合い自動車か円タクしがありませんので、殆どが牛車か馬車でした。
牛も馬も生き物ですから、辺り構わず糞尿をします。その排泄の量は体が大きいだけに半端な量ではありません。乗っているおじさんは知らぬ顔の半べぇです。又掃除する車は牛車か馬車ですから、折角掃除してもそれか又やるのですから、笑い話にもなりませんね。置き土産はそのままです。家の前で置かれると家の女将さんは渋い顔をしながら土の中に埋めていました。
《ドブ浚い(どぶさらい)》
この頃の住宅地には道路脇に深さも幅も30cm位のドブがありました。大抵少しの水が流れていて、汚いと云う感じはありませんでしたが、ドブ鼠が凄かったです。排水口は各家庭から出ていますから、そこが鼠たちの出入り口です。猫もずいぶん居ましたが、水のあるドブには手がでなかった様です。
でも子供達はドブ板を上げて、ユラユラと動いている糸ミミズを捕るんです。これは釣りをするときの餌になるからです。こんな状態ですから、ドブ浚いの人はあまり見たことはありません。月に一度くらいは来ていたようです。普段はその家の女中さんがエプロン姿で掃除している姿はよく屡々見ました。
余談ですが・・当時母親に連れられて、千住に住んでいた親戚の家に行ったことがありました。ビックリしたのはこの辺は町中ドブだらけだったのです。ドブと云っても深さも幅も2mもあるような、まるで川のようなものでした。廻りに建っている家には幅1m位の橋が架かっていました。此のドブは本当に臭い水が澱んでいました。
《乞食(こじき)》
乞食は三日やったら止められない・・と云いますが、本当にそうなんでしょうか? どんな時代でも働く気があれば働けると思いますがね。結局怠け者と言う人間なのでしょう。乞食と云っても色々な種類がありました。体が不自由な人? 実際には不自由かどうか分かりませんが、橋の麓に座り込んで空き缶をヒザかしらに置いて、通りすがりの人にお金を恵んで貰う人です。人通りの多い場所には大抵いました。
中には(今はこんな言い方はしませんが)「目くら・聾(つんぼ)・唖(おし)」等の障害を持った人が、首から板きれをぶら下げて、それに「右や左の旦那様」と自分の境遇を書いて物乞いする者もいました。
又傍らに小さい女の子を連れていたり、犬を連れて犬に首から書いたものをぶら下げていたり、様々です。角付けのお経を唱える乞食坊主等は本当に雲水なのか分かりませんが「おひねり」目当てのこういう人も沢山いました。
だけど大抵はボロボロの衣服を纏い、草履履きで、頭は髪はボウボウ、髭だらけで顔も良く分からない様な風貌で、いかにも不潔の感じの人が多く、大抵ゴミ箱を覗きながら歩いていました。ですが不思議と白髪頭の老人は少なく、黒髪の比較的若い人が多かったような気がします。もしかしたら此の人達は「徴兵のがれ」のためにやっていたのかも知れませんね?。
こう云う人達は自分の住む家もなく、各地にあった小さな公園の片隅でボロを纏い、新聞紙にくるまって寝ていたようです。だけど何を食べて居たんでしょうね?。この頃は飲食店からも残飯はそう無かったように思いますが・・・
現代は乞食なんて云う言葉は使いませんが「ホームレス」とか云う者がものすごく増えているようですね。食べ物はふんだんにあるし、ボランティアが炊き出しまでやっているし、三日やったら止められない・・なんて云う言葉は昔でなくて現代ではないでしょうか?。
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