[53]岩の坂・もらい子殺し
第53回
■岩の坂・もらい子殺し
こんな恐ろしい事件があったと云うことは、昭和5年の話ですから、私はまだ3才のころですから知る由もありませんが、当時の極貧の人達も生きる為にしたことでしょうが、人間のすることではないと思いますね。又この子達ももしかしたら今でも生存している可能性だってあるんですからね。
関東大震災以後この板橋の岩の坂は東京最大のスラム街であったと云い、この辺は木賃宿や長屋が数十軒並び、チンドン屋や遊芸人などはむしろ上流で屑屋、ヨイトマケの日雇い人夫、念仏修行者と云う押しかけ乞食、タワシの行商、お情け屋と称する街頭乞食等が主に住み、70世帯2000人近くが住んでいたと云います。
事件は昭和5年4月13日に発覚したと云い、これを「板橋もらい子殺し」と云います。事の起こりは此処に住む人夫の内縁の妻で、念仏修行者こと押しかけ乞食の尼僧であった小川と云う女が、生後1ヶ月のもらい子を授乳中に誤って窒息死させたと医者を訪れたが、医者が警察に届けたので事件が発覚したのです。
ところが此の女乞食の小川は、3月12日にも1才のもらい子を風呂場に落として死なせており、2年前から女の赤ん坊1人、男の赤ん坊4人を貰ってきては死なせていました。これらの子は曰く付きの赤ん坊のために何処からも訴えられたことがなかったので、持参金の付いた赤ん坊を貰っては過失死をさせていたが、今回は実の親が分かってしまったので警察が動いたと云うわけです。調べると此のもらい子には間に入った周旋屋が多く存在することが分かりました。
この子は3月9日に多摩川村の村井の妻が此の板橋の産院で出産して入院していたところ、志村の煉瓦商の内妻に持参金18円に着物を沢山持たせて赤ん坊を渡したと云います。すると此の煉瓦商の内妻は、岩の坂のもらい子周旋人の福田と云う女に渡し、福田が女乞食の小川に10円を付けて赤ん坊を下げ渡し、差額の8円は女ばかりが集まって飲み会で消えてしまったと云います。
此の福田と云う女は有名なもらい子の周旋人だったそうで、大正15年から11人の赤ん坊を世話をしたが、うち9人は既に死んでいて、残りの2人は乞食の手引きをしていたと云います。此の岩の坂には子供連れで街頭に立つ乞食が70人もおり、その子供は本当の子供ではなく、もらい子ばかりで年に30人近く死んで行ったと云います。
昭和5年4月14日警察は関係者を片っ端から逮捕、連行して調べた結果、恐ろしい事実が次々に判明して来たと云います。先ず張本人の女乞食の小川と其の夫、周旋人の福田と出谷の二人、太郎吉長屋、お化けの清さん長屋、北海道長屋、トンネル長屋、木賃宿の主人なども調べた結果・・とんでもない話が出てきたと云います。
持参金付きのもらい子が来ると数日は酒、たばこ等で飲み会を続け、養育には金がかかるので適当な時期に死なせてしまうのだそうです。其のもらい子は八王子や桐生などの機織りの女工の子が多く、中には上流階級の令嬢や未亡人や女教員の子もいたが、芸者や女給の子はいなかったと云います。
大正13年頃には17,8人だったのが、昭和5年には3,40人にも成っていたと云います。これらのもらい子には持参金が50円から100円が付いて来たと云いますが、もらい子周旋人が殆どをピンハネして、岩の坂のスラムの住人には10円しか渡らなかったと云います。この頃の50円、100円は大金ですよ、住み込みの丁稚小僧の年俸が1円だなんて云う時代ですからね。
貰われた赤ん坊は数日間は、最低限のミルクを与えて育てようとしたアリバイを作った後、大体10日程で死なせてしまうと云う手口だと云います。乞食の手引きに使った子供で5?10才で死んだ子は大学の解剖用に売り払い、15,6才まで育った子は北海道の監獄部屋と云う労働者か、女の子は娼妓に売り飛ばすそうです。警察も唖然の状態だったが、話を聞いた実の母は、我が子が豊かな家庭に貰われたとばかりに思いこんでいたのに、こんな結果にひどくショックを受けたと云います。
参考『誰か昭和を想わざる』
〈物語〉日本近代殺人史
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