[130]東海林太郎(しょうじたろう)昭和9年(2)

2019年3月21日

第130回
■東海林太郎(しょうじたろう)昭和9年(2)
当時は私は子どもでしたが「東海林太郎」の名は知っていましたし、時々見かけることもありました。だけど見かける時は、若い可愛い子もいつもいました。誰だろうと思ったこともありましたが、もしかしたら奥さんかな?と思っていました。
ところが前出の「日禄20世紀」の「東海林太郎」の記事に見開きで1頁に写真が載っているんです。其の写真の「東海林太郎」の後ろに若い女の子が、彼の両肩に手を乗せているのです。にこやかな顔で親しそうだったので、娘さんかと思っていました。
ところが写真の横に小さな字で書かれているのを読んでびっくりしました。そこには次のように書かれています。
「東海林太郎と高峰秀子(11)二人は特別ショウ(赤城の子守唄・東京日比谷公会堂)で競演。東海林は、高峰とその養母を自宅に同居させた。」・・とありました。
と言う訳で、女の子は奥さんでもなければ、娘さんでもなく、子役で有名な「高峰秀子」だったのですね。「自宅に同居させていた」と言うことで納得です。私はそれを見ていたのですね。
当時母親に引きずられるようにして、映画館に連れて行かれた事がありました。何処の映画館だったか記憶にありませんが、映画館は満員の盛況で、廊下にも中に入れない人で一杯でした。
子どもの私なんかは何にも見る事は出来ませんでしたが、上映中の映画に入っていた音楽だけは聞こえて居ました。それは東海林太郎の唄っていた「野崎小唄」でした。
   「野崎小唄」(昭和10年)

  ♪ 野崎参りは 屋形船でまいろ
    どこを向いても 菜の花ざかり
    粋な日傘にゃ 蝶々もとまる
    呼んで見ようか 土手の人   ♪

此の唄は#3まであります。
此の唄は「お染・久松」の悲恋物語を唄ったものですが、母は此の映画を見たかったのではありませんか? 子どもの私には興味がありませんでしたが、此の哀愁に満ちた東海林太郎の歌声は、すでに70数年経った今でも頭に残っているんです。
東海林太郎は沢山の歌を歌っていましたが、代表的のものを少し並べておきます。
「赤城の子守唄」(昭和9年)、「旅笠道中」(昭和10年)
「国境の町」(昭和9年)、「むらさき小唄」(昭和10年)
「お駒恋姿」(昭和10年)、「谷間のともしび」(昭和9年)
「山は夕焼け」(昭和9年)、「お夏清十郎」(昭和11年)
「湖底の故郷」(昭和12年)、「すみだ川」(昭和12年)
「上海の街角で」(昭和13年)、「築地明石町」(昭和14年)
「名月赤城山」(昭和14年)、「琵琶湖哀歌」(昭和16年)
その他に昔私が持っていたレコードに「下田しぐれ」と云う歌があったように覚えています。これは「唐人お吉」を歌ったもので哀愁に満ちた歌でした。
彼は終始一貫して「直立不動」の姿勢で、「燕尾服」で唄って居ましたが、戦時中には此の燕尾服で「麦と兵隊」を唄ったために警視庁に呼ばれ、外国の服装で唄うのはけしからん・・と言われた時に、彼は「燕尾服は西洋の紋付き袴、あなたが着用の制服も西洋のものではないか」と云ったそうです。
昭和32年頃には、直腸癌の手術を3回も行い、そのたびに再起不能と云われましたが、歌手としてよく再起したと云われています。その後日本歌手協会の初代会長を務め、昭和37年64歳になっても、尚,正装で直立不動の紳士は高らかに歌い上げて居たと云います。
昭和44年3月号の文芸春秋で彼は「人間にとって歌は一番簡単なものですが、それに私は生命を賭しました。これからもすべてのものをほうって歌うのです。」と・・そして昭和40年には初めての「紫綬褒章」を受章し、昭和44年には「勲四等旭日小授賞」を受けました。この頃になっても未だ人気は衰えませんでしたが、昭和47年10月4日に73歳で此の世を去りました。