[70]障害受容しない人々

今回は実を言うと前回の続きである。今度も障害受容するべき人々を語ろう。障害者本人、そして家族ときて今回のターゲットは福祉関係者そのものである。この選択には驚く人もいるかもしれない。福祉関係者は障害者の存在を受け入れている善良な人々だというイメージを誰もが持っているだろう。だが、知的障害者施設の職員も、訪問介護のヘルパーにしても障害者の存在そのものを受容できている人はおそらくいないだろう。
だが、安心していい。結論から述べるが、障害者を受け入れなくても認知症の老人を本当は憎んでいても君は邪悪ではない。むしろ、己に真剣に向き合う人ほど葛藤に苦しむものだ。障害者に偏見があってもそれはむしろ正常だと思っていて欲しい。その一方で現実から逃げ、己の弱さから逃避している福祉関係者は多い。今回は実例を挙げながら、その実態を解明しよう。
(1)ケース1
ある老人施設での出来事だ。どこにでも性格の悪い老人利用者がいるものだ。仮に名を吉本としておく。吉本は他の利用者を侮辱したり、職員に故意に暴力を振るうなどあまりにも問題行動が多かった。しかも、それを注意しても難聴で聞こえない振りをしていた。そして愚かにもその聞こえない振りに騙される職員がいたのだ。俺はその事を指摘した事がある。その時の同僚とのやり取りを再現しよう。
「吉本さん、『聞こえない』って言っていますけど、本当は聞こえていますよ。注意されると聞こえない振りをしているのじゃありませんか?」
「えっ!?まさか、、吉本さんは難聴があるのよ。本当に聞こえないんじゃないの?」
「難聴があるのは確かに本当です。でも、どの程度聞こえているかは冷静に観察すればわかるはずですよ、本人は嫌な話をされると必ず『聞こえない!』って逃げようとしているじゃないですか?」
「そ、、それはエル・ドマドール君の思い込みよ。どうしてそれがわかるのよ?」
「どうしてって?見たら(観察したら)わかるじゃないですか!どうしてわからないんですか?普通の会話の時と注意されている時では難聴の障害の強さが違うとでも言うんですか?」
最後の俺の皮肉がお気に召さなかったのか相手は感情的になってきた。
「あんたが言ってんのは単なる利用者の悪口じゃないの?!吉本さんが嫌いだからそんな事を言うんじゃないの?」
「俺が言ってんのは客観的な事実です。障害者が自分の障害を盾に人を騙す事は珍しい事じゃないですよ。それとも障害者は嘘を付かない善良な人々ばかりだと思っているんですか?」
障害者が自分の障害を利用して嘘を付く事は一概に否定できないところがある。厳しい世の中で生きていくために自分の障害も利用する狡猾さは悪い事ではない。サッカーで言うマリーシアみたいなものだと思えばいい。だが、職員がそれに騙されてばかりいるのは好ましい事じゃない。この同僚にとって障害者というのは「嘘を付かない、純粋な人々」というステレオタイプだった。つまり逆にいえば「エゴが強く、人を平気で騙す」ような障害者は認めていないのだ。健常者にいろんな人々がいるように、障害者もいろんな人々がいる。聖人のような障害者もいれば、実際施設に入っていなければ刑務所に入るかもしれないろくでもない障害者もいる。現実では障害者も多種多様であるのだ。その多様性を認めてこそ本当のノーマライゼーションが始まると断言してもいい。
だが、多くの健常者は障害者の闇の部分は見ようとしない。24時間テレビに出てくるような「前向きに頑張る障害者」だけしか認めないというのは、裏返せば障害者の存在そのものを否定しているのも同然なのだ。とんでもない差別意識だが、福祉関係者でもこのような人々は珍しくない。よく福祉関係者は障害者に対して「障害の受容が必要」と言っているが、本当に障害受容が必要なのはあなた達ではないのか?と言いたい時がある。
最初に申し上げたように、障害者に対して見下しの気持ちがあったり、差別意識があってもそれは人間としてごくごくノーマルな事だと思って欲しい。人間誰しも自分の弱さやコンプレックスを隠すためにスケープゴートを探すのである。俺が信じる偽善者とは己の差別意識から目を背け、自分が福祉に勤めているだけで「正しい人間」だと信じ込もうとしている人々の事だ。困った事に福祉界の門を叩く人は純粋に社会的弱者を助けたい人とは限らない。口ではそう言っても、実際のところ人間性に欠陥があったり障害者に対する偏見を持っていて、それを隠すために福祉界に来る人は実に多い。福祉関係者が差別主義者で人間的におかしいとは誰も思わないからだ。
だが、福祉関係者ほど偏見や差別意識のとりこになりやすい人々はそういない。また慈愛がもっとも必要な職業なのに、優しさや愛情に欠ける職員も多い。挨拶など社会常識が出来ない職員も多い。俺が福祉業界の常識は社会の非常識と言うゆえんだ。堅気の世界ではやっていけないタイプの人間が多いのが福祉界だが、一般社会で福祉関係者だというだけで「立派な人だ」と評価される事が多い。福祉をやっているだけでどうして「立派」なのか?その「立派な人だ」という世間からの賛辞の裏返しは福祉に対する社会一般が抱く嫌悪感の表れでもある。そんな事もわからずに一般人に「立派な人だ」と賞賛されると内心喜ぶ単細胞こそが福祉関係者でもあるのだ。
世間から「立派な人だ」と賞賛されても、福祉関係者は本当は脆くて弱い人々だ。障害者を受容するどころか、自分たちの人間的な欠陥も直視できていないのだから絶望的だ。彼らは自分たちの弱さを隠すために福祉業界の門を叩く。利用者相手なら自分の弱さを突かれることは無いと思っているところがある。人間的欠陥のある職員の多くは己の本当の姿を知る事はできないし、出来れば知りたくも無いのが本音なのだ。何度も言っているが、人間は自分自身を偽る時こそもっとも邪悪なのだ。だからキャリアを重ねて行けば行くほど、人格的な歪みがひどくなるのだ。
エル・ドマドール
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