[129]ラストメッセージ

2018年8月25日

たまごや様を介してのこのメルマガを発行するのは今回で最後になる。諸君が俺のメッセージを受け取るのは最後になるかもしれない。今まで俺は精神論を殆ど書いてこなかった。このメルマガで教えるのは事実で、慰めは牧師の仕事だと思っていたからだ。だが今回は諸君に魂を込めたメッセージを送りたい。
俺は今まで10年以上いろんな人を介護してきたが、利用者からいろんな事を言われてきた。感謝をされたこともあるが、罵倒されたこともある。殴られたこともある。しかし、その中でも俺が最も聞きたくないセリフがある。
「年をとっても本当にろくな事がないわ。私もいい加減にもう死にたいわ」
よく高齢者施設に勤めているとこんなセリフを吐く老人が少なからずいる。尊敬してほしいのか、それとも同情してほしいのか知らないがみっともない甘えもいいところだ。長い介護人生で何度も聞いたが本当に頭にくる。本気で「死にたい」とは思っていないところに余計怒りを感じる。もしこれが自分の親なら虐待と言われても仕方ないぐらい殴り倒しているだろう。
「甘ったれてんじゃねぇ!!この世界にはおのれみたいに長生きどころかろくに生きることもできない人だっているんだ!どれだけ自分が恵まれてるか知らないで、よくそんな事を言えるな。アンタみたいな人間なんかいない方が税金と保険料の節約になっていい。今すぐそこの窓から飛び降りろ。何なら介助してやろうか?」
勿論こんな事は口にしないし、内容も実行することはない。ただ俺はこの類のセリフが非常に大嫌いで仕方がない。不幸なのは自分だけだと思っているのだろうか?自分が今生きていられるのは家族や周りの献身があるからではないのか?要介護状態でも衣食住に不自由しない環境はある意味人類の理想郷だった。自分が不幸だと思うのは本当は恵まれていると気付いていないだけではないのだろうか?
そしてこの「もう死にたい」と言うセリフはいかに自分の人生に満足していないかの裏返しでもある。怒りと同時にこうも思う。どうして「生きてきて幸せだった」と自然に口に出るくらい充実した人生をなぜ過ごさなかったのだろうか?
こんな老人の愚痴を耳にした介護職員もこんな事を思う人が多い。「やっぱり年取ったらボケる前にぽっくり死んだほうがいいね」だが、俺はそんな主張には到底同意しない。自分が高齢者になるのが当たり前だと思っている傲慢極まりないセリフだ。死期を自分で決める事は出来ない。ある人は100歳まで生きていても、マイケル・ジャクソンみたいに50歳で死亡する事もある。貴方達も明日交通事故に遭って死亡するかもしれない。だが、ここで胸に手を当てて考えてみて欲しい。果たして俺たちは明日死んでも納得できるぐらい充実した人生を送っているだろうか?もし返事がノーなら今日からでも納得できる人生を送ろう。
前述した「もう死にたい」と口にする老人たちはその努力を怠ってきた人々なのだ。長生きできるのが当たり前だと思い込み、ただ漫然と流されるように生きて来た結果、改めて自分の人生に満足感がないという事実に絶望しているのだ。だが、要介護状態になってそれに気付いてもあまりにも遅すぎる。
人生80年と言っても本当の意味で「生きる」事ができるのは80年ではない。人生要介護状態になったり、出産や育児、親の介護などで好きなように生きる時間は思ったより短くなる。だから自分が「生きる」事ができるうちに充実した時を過ごして欲しい。何もしなくても長生き出来るのが当たり前だと思っていはいけない。
もうひとつ当たり前だと思ってほしくない事がある。親や兄弟や家族、もしくは友人、恋人や同僚など愛する人がいる事を当然だと思っていはいけない。第51号「ヒューマンスキル」で俺は利用者には何よりも人付き合いのスキルの方が大事だと主張した。この事は健常者にだって同じである。人と人との絆こそこの世で最も人間が切望するものだからだ。
施設で長い間介護してきたが、この「絆」を無くしてしまった人は実に多い。そもそも社会で他人や家族と上手くやっていけないからこそ施設に入る羽目になった人が多い。皮肉なことに人間の愚かな性で、人と人との絆は無くしてしまってからその大事さに気付く。施設でヒューマンスキル大事にして来なかった人の余生は悲惨の一言だ。亡くなっても誰も泣く事もなく、それどころか「死んでくれて良かった」と介護者ばかりか家族にまで言われる人もいる。
かつて杖で俺に殴りかかってきた男性は本当に家族や周りの人々を大事にしなかった。身勝手なわがままで家族や介護者を散々困らせた。軍人だった彼は在日韓国人や中国人を見下す筋金入りの人種差別主義者だった。その彼が死亡した時の光景は一生忘れられない。元軍人でそれなりの人付き合いがあるはずだが、なんと通夜での参列者はたった4名だった。俺は職業柄通夜に行く事が多いが、ここまで出席者が少ない通夜は見た事がなかった。人と人との絆を大事にしない代償は哀れなほど高くつく。
どちらかと言えばこういう人々は「自分を変えられない人」とも言える。醜い自分、身勝手な自分、愛されない自分を直視することなく悪癖にしがみついたがゆえにみじめな老後になってしまった。「老後の心配」と言うとよく金銭的な問題を想像するが、実を言うと精神的な孤独の方が深刻なのだ。
一方、施設に入所していても面会者が絶えず訪れ家族に愛されていた人もいる。ある死亡した女性は「生まれ変わってもまたこの家族で一緒になりたい」と生前言っていた。俺はこのセリフが忘れられない。ここまで言えるぐらい家族や愛する人と良好な関係を築いているだろうか?
もう一度言うが自分を支えてくれる家族や友人、恋人など近い人がいるのを当たり前と思ってはいけない。そして感謝や愛をできれば直接言葉で言える内に言っておいてほしい。「いつでも言える」なんて思ってはいけない。最初に強調したが人生は永遠ではない。その終わりはいつ来るのか誰にも予想できない。生きていても認知症になったり脳梗塞などで植物状態になってしまえば貴方がいかに愛していたのか知る事はできないだろう。
これまで2年以上も言いたい放題書いて来た。ここまで購読してくれた諸君には本当に感謝している。読めば気分を悪くさせるメルマガを最後まで解除することなく購読してきた諸君はおそらく真剣に人生を考える人たちのはずだ。どうか偽りに惑わされることなく、現実を直視して生きて欲しい。このメルマガで俺は真実を書き続けてきた。現実は辛い。だが真実こそ人を自由にして幸せにする事を忘れないでほしい
このメルマガの存続について多くの人々から存続希望のメールを頂いた。メールを頂いた方にはこの場で感謝の意を表したい。今まで2年以上書いて来たがこのメルマガを必要としてくれる人々がいて本当に光栄だ。当初そんなに存続希望のメールは来ないだろうと思っていたが、本当に作家冥利に尽きる。存続の要望に答えるべくこのメルマガ終了後も連載を続ける事にした。今度はブログで俺の毒舌を発揮したい。
PCからは http://blog.zaq.ne.jp/socialservice/
携帯からは http://blog.zaq.ne.jp/m/socialservice/
これからも福祉に関して他では聞けない真実を発表していくつもりだ。
たまごや様にもこれまでのご助力を感謝申し上げたい。
エル・ドマドール
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