[93]プレジュディス(下)

2018年8月25日

前回に続き、今回も偏見について語ろう。
よく言われることだが、「偏見や差別は無知が原因だ。無知を克服する教育こそ差別問題を解決する鍵である」という主張を俺は大学時代に耳にした。それは今でも確かに正しいと言える。前回のマイケル・ジャクソンに対する偏見は彼の背負った病気や障害に対して無知なために起こる典型的な例といえるだろう。しかし、その事を学んで10年以上が経った今、俺はプレジュディスは無知だけが原因なのだろうか?と思っている。どうしてそう思うのか?
差別や偏見は人よりも知能が高いはずの知識人にも多く見られているからだ。むしろ、インテリや知識人たちはその頭脳で理論武装やディベートにも長け、自分の持つプレジュディスを巧みに正当化しようとする。だから彼らの偏見はある意味かなり性質が悪い。こんなことを言うと「インテリ=差別主義」と決め付けていると反論がありそうだから、先に言っておく。俺は「インテリ=差別主義」は決して間違いではないと思っている。なぜなら偏見に取り付かれない人間など誰もいないからだ。差別や偏見が無知から始まるのであるなら、なぜ知識人たちは偏見から逃れられないのか?その疑問を呈したいのだ。
誰よりも賢いインテリがいかに偏見に陥っているか、それをリアルに描写するいいドラマがある。諸君はアメリカテレビドラマの「BONES」をご存知だろうか?主人公の人類学者テンペランス・ブレナンは人骨を見て猟奇事件を解決する凄腕のエキスパートだが、それ以外は人間としてかなり欠陥がある科学者だ。IQは高いはずなのに頑固で融通が利かず、ずけずけとモノを言っては周りを当惑させるなどコミュニケーションに欠陥がある。サイコセラピーを嫌がり、心理学は信じないなど科学者としてあるまじき偏見を持つ人物だ。悪い人間では決してないのだが人間的に未熟なところがあり、高いIQを持っていても弱点があるところが人間らしいリアルなエリートを上手く演出している。もし機会があるなら是非見て欲しい。
また科学が偏見にいかに毒されているか知りたければエコロジーを見ればいい。はっきり言ってエコロジーは嘘の塊だ。多くの人はエコロジーはいいものだと鵜呑みにしているが、エコロジーではアルミ缶のリサイクル以外全く使い物にならない。エコロジーを説く科学者は国民を意図的に騙しているか、それとも偏見を信じているかどちらかだ。麻生総理はラクイラサミットで太陽光発電を今の20倍にすると発言したが、実を言うと太陽光発電は石油の無駄遣いに等しい。
まずはそのコストパフォーマンスの悪さだ。火力発電所が投資したコストを1年足らずで回収できるのに太陽光発電は軽く10年以上かかってしまう。しかもそれは部品が故障するなどのアクシデントがなければの話だ。しかも太陽光で発電できるのは10時から15時の快晴時のみ。夜や雨の日など発電できない時はどこから電気を調達するのか?結局安定的に供給できる既存の発電所しかない。それなら最初から火力発電所だけを使えばいいだけではないか?現代の科学技術では例えCO2を排出しても、石油以上に効率のいいエネルギーはないのだ。大量の石油を使ってソーラーパネルや半導体を作っても殆ど微々たる量しか電力を生産できない太陽光発電。それは冷静な客観性を見失い、偏見に取り付かれたインテリたちの墓標と言ってもいい。
ちょっと例が長すぎたが、本来の話題にも戻そう。例に挙げたように科学者も人並み以上の知識と教養があっても、プレジュディスを克服できているとは到底言えない。偏見を克服するのはIQではないのだ。では何であれば偏見を克服できるのか?俺はそれはテストの点数や金銭のように決して数字化できないものだと確信している。あのジークムンク・フロイトはさすが心理学者らしくこんな名言を残している。それにヒントがあるので紹介しよう。
――成熟とは曖昧さを受け入れる能力である。
人間誰しも物事がはっきりせずに曖昧にしておくのはとっても苦痛なところがある。なるべく早く、善か悪か白黒はっきりさせたい。しかし、それでは時に拙速な判断を招いてしまう。そこではっきり判らなくても、曖昧な事実を白黒決め付けずに受け入れることこそ成熟さの指標ではないのかとフロイトは主張しているわけだ。つまり偏見とは事実が判らない状態への不安の産物とも言える。だからこそいくら勉強して知性を磨いても偏見から逃れることができないのだ。プレジュディスを克服する力とは不安を超える力。弱い自分自身を乗り越える内省的な修練でもあるのだ。
エル・ドマドール

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