[116]認知症シリーズ(9)隠れた認知症

2018年8月25日

前回は認知症でない物忘れが認知症だと誤解されやすい事を書いた。今回はその逆、認知症なのに認知症だと思われていない「隠れた認知症」について語ろう。
第74号「知的障害者(上)」を覚えているだろうか?俺はそのメルマガで知的障害者について明確にその定義を定めた法律がないことを主張した。知的障害者の定義がないために、福祉の保護を受けるべき知的障害者がセーフティネットから放置されている実態を明らかにした。
だが、認知症の場合も似たようなケースが良く見られるのだ。知的障害者と違い、認知症には法律の保護もあり定義もきちんと定められているにも関わらず認知症老人が認知症だと診断されていないためにきちんとした介護や医療を受けていない実態があるのだ。
例えばよくニュースやワイドショーで話題になるゴミ屋敷。近所迷惑もいいところだが、実を言うとゴミ屋敷の住人の多くは認知症だ。計画遂行能力の低下、判断力の低下、収集癖、客観性の低下、記憶障害、いくらでも認知症の兆候は見つけられる。助けてくれる家族でもいれば認知症診断を受けてヘルパーサービスなど適切な介護を受けて安定した生活ができるかもしれない。しかし、彼らには親しい友人や家族、心配してくれる隣人がいないために荒れ果てたゴミ屋敷に埋もれてしまっているのだ。
こんな話をすると老人の孤独死同様、「核家族化が進み、単身者世帯が増えた」「共同体意識がなくなりつつある」と社会学の問題にする学識者が多いが、そんな大げさな問題ではない。元々ゴミ屋敷の住人は認知症になる前から他人とうまく折り合いができない人々が多い。家族がいたとしてもトラブルや諍いを起こし、絶縁状態になっているケースも少なくない。認知症や障害を持っていると人間関係のトラブルも障害の一つと考える福祉関係者は多い。
確かに認知症になると、精神後退が進み我慢ができないなど人間関係に悪影響が出ることはある。だが、本人の人間性の問題を認知症のせいにすることはできない。人間関係の悪化は例え認知症でも多少は本人に責任がある。こんな事を言うと「利用者を軽蔑している」と勘違いする人が多いため言いたくないが、どこにでも嫌われる人がいるように彼らが社会から孤立するのは傲慢さや自己中心性など単に「性格が悪い」と一言で済む問題に過ぎない。
嫌われ者でも障害がなければ日常生活に支障はないだろうが、年老いて認知症になると誰も助けてくれないために本人ばかりか周りまで巻き込む厄介極まりないトラブルメーカーになってしまう。そして民生委員や警察官でもない限りそんな社会不適合者にわざわざ近づきたがる物好きはいない。例え本人と接触できても認知症診断を医師から受けて、介護サービスを受けさせるにはさらに高いハードルを飛び越えないといけない。
まずは本人の壁だ。本人の自我が強く、軽い認知症の場合、認知症診断を受けさせるのは至難の業だ。重度で自分の意志表示がはっきり言えないぐらいの認知症ならまだしも、比較的軽度の認知症の場合は本人に自分が認知症であるという病識がないことがほとんどだ。そんな人々に「認知症診断を受けましょう」と勧めても怒らせてしまうだけだ。
本人の病識の無さも問題だがこれに家族が関わるともっと問題が複雑になってしまうケースもある。福祉関係者から利用者が認知症であると指摘を受けてもその息子や娘、あるいは配偶者が頑として自分の肉親が認知症であることを直視しない事があるのだ。交通事故を起こしたり、火事を起こしたりするとやっと現実を認め始めるが、そうでない限りなかなかどの家族も自分の親が認知症になっていることを積極的に認めようとしない。ケアマネージャーや医師、ヘルパーなどその筋のプロからいくら助言を得ても一向に耳を傾けない家族も珍しくない。だが、家族はそうやって現実逃避をしていればいいが、認知症だと診断されなくて一番不利益をこうむるのは認知症にかかっている本人なのだ。
どうして世間に人々が認知症を直視しないのかと問われれば、認知症について正しい知識が知られていない事が大きいと答える。実を言うと認知症の見分け方に関しては専門家でさえ判断が難しい。認知症の定義でさえよくわかっていない福祉関係者は珍しくない。例え認知症について正しく知っていても、いざ実際に認知症の疑いがある高齢者を目の前にして認知症かどうか判断するのはまた違った難しさがあるからだ。この問題に関しては認知症に対する恐れや偏見が先行している事が大きいだろう。
エル・ドマドール
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