[117]竹原市長発言

2018年8月25日

11月8日に書かれた阿久根市長竹原信一のブログをご存じだろうか。
この市長はそれまでも散々なトラブルを起こして来たが、11月8日に自身のブログで医師不足の問題に触れこんな発言をしている。
「例えば昔、出産は産婆の仕事。高度医療のおかげで以前は自然に淘汰された機能障害をもってのを生き残されている。結果、擁護施設に行く子供が増えてしまった」(竹原信一市長ブログよりそのまま引用)
この記述をめぐっては議会や障害者団体のみならず教育界や宗教界からも反発を受けた。市長は「ブログの発言の一部を取り上げて誤解している」と差別的意図を否定。謝罪を拒否した。しかし12月21日にこの市長は講演会でまたもや過激なスピーチをしていた。それを以下に紹介するが、これを聞くと確信犯的と言われても仕方あるまい。
「社会をつくるには命の部分に踏み込まないと駄目だ。表現としては厳しいが、刈り込む作業をしないと全体が死ぬ。壊死した足は切り取る。それで全体を生き残らせる。情緒で社会をつくることはできない」
諸君はどう思っただろうか?俺の意見を言わせてもらえば、はっきり言ってこの市長はあまり洗練されていない無知な人だと思ってしまった。発言の内容が障害者の存在を否定するために非難されているが、それ以前に文章の内容が日本語としても酷い。未だに産婆などと差別用語を使っていることもそうだが、この文章の内容で機能障害を使うのは誤りだ。正しくは障害、詳しく言うなら先天性障害と書くべきなのだ。擁護施設も正しくは養護施設だろう。福祉分野や医療分野に対してあまりにも無知なのも酷いが基礎的な教養が無さすぎる。中傷するつもりはないが、阿久根市民はよくこんな無教養は人物を当選させたものだ。まあ、前首相も漢字が読めないのだから仕方がないかもしれない。
世間ではこの文章について感情論で非難を浴びたようだが、俺にとっては驚きではない。この程度の障害者差別発言などは竹原市長が政治家だから問題になるのであって、程度の差こそあれ障害者を軽蔑したり嫌っている人などいくらでもいる。俺のメルマガでもその事は何度も指摘したはずだ。冠婚葬祭に体裁が悪いからと障害者の家族を排除しているケースだって俺は何度も見聞した。視覚障害者が火事を起こすかもしれないからと言う理由で無条件でアパートの契約を拒否される事もある。障害者差別ではないが、インターネットの掲示板や動画サイトには韓国人や中国人を誹謗中傷する発言で溢れ返っている。酷い差別だろうがその醜い社会が我々の直面する現実だ。竹原市長との違いは話題になるかならないかだけだ。
その竹原市長発言に対してのマスコミや議員、教育関係者の反論はあまりにもお粗末だ。「障害者を差別している」という感情論しか聞かれない。だが、そんな感情論だけでは誰もが納得させられるわけじゃない。現に今もこの市長はリコールされていないではないか?どうしてもっと冷静に理路整然と議論ができないだろうか?そこで代わりに俺が理論的な反論を試みたいと思う。
竹原市長は「高度医療のおかげで以前は自然に淘汰された機能障害をもってのを生き残されている」と今の先進医療のお陰で障害者がなまじ生き残っていると書いているが、これはそもそもの前提から誤りだ。確かに今は医療の発達で植物状態でもそう簡単には死亡しない。長寿大国日本の躍進に医療が良くも悪くも医療が重大な役割を担っているのは否定できない。しかし、それはあくまでも末期医療の話だ。産科医療に関しては全く逆の話になる。
医療の歴史を紐解けば元々出産の現場に医師は関与していなかった。ところが19世紀から20世紀にかけて医師が産科医療に関わるようになる。一般で信じられている事とは裏腹に医療が出産に関わるようになってから先天性障害が増えたのだ。ここで詳しくは述べないが、脳性麻痺、奇形児、ダウン症、知的障害などの先天性障害は医療行為が原因である医原病なのだ。特に陣痛促進剤による無理な陣痛は知的障害や脳性麻痺などの原因になり、あまりにも危険すぎる。しかし、こんな危険な薬物を使っているのが病院なのだ。高度医療が障害者をなまじ生かしているなんてそれは全く逆だ。先天性障害者の悲劇は経験から学ばない医師や行政、司法、立法が引き起こしたものなのだ。医療が出産にしゃしゃり出てこなければ彼らは無事に生まれて来たのだ。竹原市長の発言はその点から事実誤認が著しすぎる。無知が故の暴論であるだけなのだ。
エル・ドマドール
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