先日、大阪の小学校で8人の生徒が残虐な男の餌食になるという事件がありました。まず、そんな人間が出てきてもおかしくはない、とこの手の事件に慣れっこになってしまった自分自身に驚きました。17才の少年のバスジャック事件の時もそうでしたが、「本人に責任能力があるか」がなぜまず問われるのか、という疑問です。精神病だったら、少年であったら殺人という大罪を犯しても許されること自体がおかしいと同時に、真っ先に問われるということはそんなに世の中に精神病患者が多いのかということです。
突き詰めると、精神病と健全な人との線引きはどこにあるのか、誰だっておかしいと言えばおかしな部分はあるではないか、少年といっても精神的あるいは環境的にも大人顔まけの生活をしている子どももいるし、十把ひとからげの理論では割り切れません。また、時代とともに「異常」の規準が変わってきている気がします。
まず精神病患者については、日本ではまだまだ差別視する環境が患者の治療を阻むとともに、隔離をすればやれ人権の問題だの、社会復帰が遅れるだのと病院や家族が野放しにしてしまいがちです。少なくとも他人に危害を加える可能性のある患者については周囲が責任を持って監督してほしいと思います。そうすることにより、地道に治療を続けている患者に対する偏見も減るでしょう。
どの事件でも思うのですが、犠牲者や遺族の人権は見捨てられ、ニュースのたびに写真が発表され、ワイドショーは遺族や知人に取材に押しかけ葬儀の中継まであります。それに対し、犯人の人権だけが異様に保護されています。国民も報道に対して涙したり、驚いたり、あきれかえったりしながら食事をしたり、お酒を飲んだりしている訳で、事件の核心や再発予防とはまったく関係のない次元で野次馬根性を発揮して終わっています。
少年犯罪についてはかつて立原正秋の「冬の旅」を読んだ時、家庭環境から止むを得ず犯罪に走る少年たちにまさに目からうろこが落ちる思いで、犯罪者イコール生まれつきの悪人という偏見がなくなりました。ところが、現在ではもはやこの小説に描かれた作家の暖かい目などせせら笑うがごとく「事実は小説より奇なり」を驀進中です。
日本の戦後は「言論の自由」、「表現の自由」、「プライバシー」、「人権」など開放と権利ばかり主張する運動が繰り広げられて来ました。必ず対になっているはずの「責任」という言葉がいつしか欠落してしまいました。「お上の言うことだから仕方ない」「長いものには巻かれろ」「合議制」などもともと個人ひとりひとりの責任があいまいなこの国では「自己責任」という認識が育ちにくいと思います。
この「安易な自由」という環境下でモノや情報だけがあふれかえれば、誰もが理由なき闘争心や焦燥感、不安感を持ってしまうのではないでしょうか。しかも、家族、会社、コミュニティの中での人的交流が希薄になれば、心がバランスを失ったまま放置されたり、強い精神を育んでくれる人もいない、その結果、刹那主義、無気力、人や状況によっては異常に攻撃的になってしまうのではないでしょうか。狂気の芽は誰にもある、それが現代です。
2001.06.28
河口容子