夏になるとお決まりのように出現する首相の靖国参拝ニュース、今年は国民的アイドル小泉首相とあってふだんは政治に見向きもしない人々までがその行方を関心を持って見守りました。結果は何のことはない、前倒しでの参拝ということで裏をかかれた気持ちになりました。論議を尽くさず、回答を出さず、その場しのぎ、事なかれ主義、つまり日本のお家芸で幕が引かれ、国民は何事もなかったかのように秋を迎え、来年の夏までこの話題は忘れ去られてしまうのでしょう。
毎年、毎年同じ問題が出るのに誰も何もしない、これは莫大な時間のロスであり、何も進歩がありません。今年は中曽根首相が参拝した時は神道の形式をはずしたが、神官は陰払いをしたという暴露話や小泉首相の参拝を反対した田中外相も実は参拝していたなどのニュースが流れ、問題の本筋とは違うワイドショー的話題に方向転換してしまいました。
私が思うことはふたつあります。まず、「政教分離」と言うものの、日本人のほとんどは結婚式はキリスト教、お葬式は仏教、年始には神社へ初詣、というような宗教意識の乏しい国民です。ここでいう「政教分離」というのはむしろ一定の宗教に左右されない、という程度の意味ではないでしょうか。しかし、選挙ではいろいろな宗教団体が票田として影響力をもつことも事実で、実は政治家と宗教は切り離せないものなのかも知れません。
もうひとつは、太平洋戦争で犠牲になった多くの人々に哀悼の意を表す気持ちと平和を希求する気持ちは誰もが共通だと思います。宗教や国籍にかかわらず誰もが訪れることのできるメモリアル・パークのようなものをなぜ作らないのかということです。私の父は学徒出陣しました。母は女学校が工場になり軍服の縫製に動員されていました。また、祖母は広島で被爆しました。戦争の話をよく聞かせてくれた母も70才を越し、さすがにめったに話題にしなくなりました。先週の話題、ホンネとタテマエではないですが、当時の誰もがホンネでは戦争などに巻き込まれたくない、召集された人々は生きて元気に家族のもとに帰りたいと思っていたに違いありません。そう考えるとタテマエにマインド・コントロールされた異様な時代があったことを封印してはならない気がします。
その場しのぎ、場当たり主義(良く言えば臨機応変かも知れませんが問題の先送り)は、政治のみでなく、日本のどこにでも見られます。要するにこの国民は深く考えない、論議を避けたがる傾向があります。そして何とか納まりのつく方法を安易に考えてしまう。周囲は満足でもなく、特にきわだった不満もない。この方程式であまたの問題がいつまでたっても解決されず、山積しているのが現代ではないでしょうか。
何かを解決する、改善するにはたくさんのエネルギーと勇気がいります。それをやっていかなければ、考える力のない人間ばかりができてしまいます。何があっても無反応、ただ時代に流されていくだけです。私がこのエッセイを書き始めたきっかけもそうです。日本人はニュースが好き、だけど本質を深く考えていません。ニュースこそあなたの今生きている時代を映す鑑なのに。
2001.08.24
河口容子