アセアンの国から -3-

 最終訪問国はフィリピンです。親日的なインドネシアと違い、ここは日本軍の占領の歴史を持つ国だけに、対日感情もあまり良くないと聞いていました。一緒に仕事をした政府機関の若い女性によれば「フィリピンはスペイン、米国、イギリス、日本に支配された歴史がある。だからとてもフレキシブル!」とはじけるような笑顔です。

 マニラにも 3泊しましたが、ここでのハイライトは何といってもルソン島南部レガスピでの体験です。朝 4時半に起き、マニラから空路でレガスピへ。テロ撲滅作戦で警備が厳重な上に、チェックインの作業の遅いこと、離陸も遅れるし、とにかくここでは何もかもどうしてそんなに時間がかかるのか不思議を通りこして不安になってしまいます。同行してくれた上述の女性はいつも時間より早めに現れ、200%の気配りでサポートしてくれるのですが、彼女のパーソナリティによるものなのか、訓練されれば皆そうなるのか、これまた謎でした。

最初の訪問先はレガスピ空港から車で 2時間のソルソゴンにあります。私たちの乗った飛行機は 8時半到着予定ですが、出迎えに来てくれたその会社のオーナーは 7時半から空港で待っていてくれたとのことです。この辺りは日本ではまだなじみが薄いもののマヨン火山が見え、かくれたリゾート地で結構外国人の姿も見受けられます。山、水田、わらぶきの家、牛と、椰子の木さえ除けば昔なつかしい田舎の風景がどこまでも続きます。

道路から子どもたちが飛び出して来るので警笛を鳴らしながら車は進みます。マニラのデパートではフロアのほとんどを子ども用品にさいている所もありましたが、都市では一家に子どもは3-5人、地方に行けば 5-10人も普通というお国柄だけあって、日本ではもう見られなくなった「子どもだらけの世界」に遭遇します。

 この日は会社のオーナーの若きご夫妻と面談した後、手作りのお料理を一緒にいただき、自然のままの白い砂浜の続くビーチのあるホテルで歓談しました。日本の都会ではもう持てなくなった時間です。見上げればまぶしい青空、海をわたるすがすがしい風の中、彼らは仕事への情熱を淡々と語ってくれました。

 日曜日、ガイドが探せず困っていた私たちに急遽ガイド役をかって出てくれのが地元の青年実業家でした。日本企業に勤務経験があり、日本にも 1年いたという彼は夜中 3時半に帰宅したにもかかわらず、 8時半にはホテルに颯爽と現れ、マヨン火山をはじめ、ホヨポヨパン鍾乳洞やフィリピンを代表するデザート、ハロハロの老舗など地元を一周するほど連れて行ってくれました。ここビコール地方はギネスブックに出ているほど辛い料理で有名な所ですが、辛いものの苦手な私に彼のお母様がわざわざ手料理でもてなしてくれました。

 また、これまた地元の若き実業家ですが、美人で実業家としても敏腕の妹さんたちを引き連れ、楽しいディナーに誘っていただいた上に、次に来る時のためと何と地元のホテルを順々にまわり、従業員にいろいろなタイプの部屋を開けさせ、中までわかるよう案内してくれたのです。

 彼らは皆大家族ですが、いつも笑いが絶えません。大人数で楽しく暮らすということは、一人一人がかなり気遣ってがまんして暮らすことが必要であろうと思います。日本ではいつしか大家族は恥ずかしいことになってしまったのはなぜなのでしょうか。どこの家族でも母親がとても尊敬されていて、私たちのようにお客さんが来ると必ずお母様が挨拶に出て来られます。ビジネスをやっている家では経営者として辣腕もふるっています。たくさん子どもを産み育て、いつまでも尊敬され家族の中心でいる、これは女性冥利につきると思います。日本ではいつしか「量から質へ」ということが重要視されるようになりましたが、はたして質のいい子どもたちが育ってきたのでしょうか。

 視点は変わりますが、外国人の旅行者にとっては短い滞在期間に見たもの、会った人がすべてその国の印象となります。はたして、私たち日本人は私の出会ったフィリピンの人たちと同じような「心からのもてなし」をしているでしょうか。「日本人はゆとりがないから。」と言う人がいます。旅行に行き、高級レストランで外食もでき、ブランド品も買えるのにゆとりがない?つまり、心にゆとりがないのは人間として一番貧しいということを思い知らされたフィリピンの旅でした。

2002.04.11

河口容子