クリスマス前にジャカルタに住むビジネス・ウーマンの友人が英国をはじめヨーロッパ数ケ国に出張しました。寒さは大丈夫だったかと冗談半分に聞くと「寒さよりも、あちらでは午後4時になるともう真っ暗なのにびっくり」とメールをくれました。赤道直下の国では高緯度の国の冬の日の短さなど体験しない限り理解はできないことでしょう。
ジャカルタやクアラルンプールで仕事をしているといきなり夜がやって来るような気になったことが何度かあります。さきほどまで昼間の明るさだったのにいきなりどずんと黒い幕をおろされたような感じです。仕事に熱中して夕暮れに気づかなかったのか、はたまた疲れて居眠りをしてしまったのかと疑うほどです。一度観察をしていたことがありますが、日本でいう「たそがれ」というファジーでミステリアスな時間帯はないようです。
ということは、夜明けのスピードも早いということです。ある日、ジャカルタのホテルでビルの上から昇る朝日をカメラに収めようとファインダーをのぞいていたら、太陽がぐんぐん昇るのを肉眼ではっきり見ることができ、シャッター・チャンスを逃したことがありました。これが地球の回るスピードだと妙に感激した瞬間でもありました。
日本人の場合、記憶は四季と結びついています。「あの時桜が咲いていたな」とか「いつだったか忘れたけれどコートを着て行ったから冬だったんだろう」などです。手紙も季節の挨拶で始まりますし、文学を志す人にとってはいかに季節を表現するかの勉強が必要となります。また、四季と色、特に平安時代の襲色目(かさねいろめ)など独特の文化を生み出しています。これは四季ごとに十二単などの表と裏の色の組み合わせが決まっており、それぞれ季節にちなんだ名前をつけたもので、たとえば「紅梅」といえば春の色あわせで表が紅、裏が紫です。冬の「氷」といえば表も裏も白のことをさします。
常夏の国では雨季、乾季というのはあっても当然四季はありません。彼らはどうやって思い出を記憶するのでしょうか。変化のない気候の繰り返し。豊かな実り。厳しい冬への蓄えもいりません。そこに住む人々が日本人から見ればおおらか、時には怠け者のように見えたことろで、これは気象条件のなせる業と私は思います。
東南アジアからの帰り、夜成田に着くフライトに乗った時のことです。茜色の空がグラデーションのパターンを何度も変えながらしだいに夜の闇に混じっていく美しい光景の中を沖縄の上空から到着までえんえんと飛行機で楽しむことができました。これが日本の夕焼け、日本人の繊細な感性はこんな気象条件からできているだと、ふと思いました。日本人にも無感覚な人がどんどん増えているのは、自然とのふれあいが減ったせいなのかもしれません。
「春はあけぼの」外国人ならそれがどうしたと言いそうですが、日本人ならその一言に共通の景色を思い浮かべ美意識を見出します。海外で仕事をすればするほど「春はあけぼの」の奥深さを感じる今日この頃です。
河口容子