[145]ベトナムへの想い

ベトナム戦争は1960年代初頭に始まり、1975年 4月30日に終わりました。米国はケネディ、ジョンソン、ニクソンと3代の大統領が1500億ドルの戦費を投入し、ピーク時には54万人を派兵しました。近代戦の雄である米国が小柄なベトナム人のゲリラ戦に負けた米国戦史上の汚点でもあり、米兵の戦死者 5万 8千人、南北ベトナムでは 200万人の犠牲者を出したといわれます。考えてみれば私が小学生の頃からちょうど大学4年までこの東西冷戦の象徴でもある戦争は続き、米国はもとより日本でも反戦運動に揺れましたので、いわば「間接的戦中世代」と言えるかも知れません。戦場のカメラマン沢田教一さんが「安全への逃避」という写真でピュリッツアー賞を受賞したのは1965年、東京オリンピックの翌年で、「日本人にも国際的に評価される仕事をする人がいる」ことを子どもながら感動したのを覚えています。沢田さんはその5年後、カンボジア戦線で亡くなりますが、当時は今のように日本から観光客が押し寄せるなどということは想像すらできませんでした。
大学を卒業し、総合商社に入社しましたが、課長は元サイゴン(現ホーチミン)事務所長、全社で一番こわい課長と言われていました。サイゴンが陥落したおかげで私は全社一こわい課長の下で働くめぐり合わせとなったのです。
今年の9月に約1週間ベトナムに出張する予定です。首都ハノイを含め3都市で講演や会社訪問がありますのでそろそろ準備が始まっています。そのタイミングを計ったかのように私の香港パートナーからメールが入り、パートナーがベトナムのホーチミンに投資している企業の責任者の女性二人が来日するので1日くらい会ってもらえないか、というものでした。
今年の梅雨は不順な気候で、蒸し暑いのには彼女たちは慣れているとしても急に小寒い日があるので長袖の軽い上着を持ってくるようにと直接メールを入れた私は約束の日にホテルのロビーに行きました。ロビーにはたくさんの人であふれていましたが私にはすぐ彼女たちを探しあてました。典型的なベトナムのビジネス・ウーマンだったからです。副社長をしている年上の女性のほうはきっちりとした夏用の長袖のスーツにシャネルの大きなバッグ、貿易担当部長の女性は白地に同色で刺繍をした長袖のブラウスに日本のブランドものの靴をはいていました。現地ではエリートだからでもありますが、私が子どもの頃から植えつけられたあの哀しい戦争の面影はどこにもありません。
打ち合わせを行い、展示会に案内した後、銀座の百貨店内のフランス料理店で軽い昼食をとっている最中に彼女たちは急に言い出しました。「この辺にお花やお庭を見れるところはありませんか?」「えっ?植物園のこと?」私は新宿御苑に彼女たちを連れて行くことにしました。この日は朝霧雨が降り、緑がたっぷりと水分を含み、人出も少なめでした。彼女たちはデジカメで記念写真を撮り始めました。私も撮ってもらったり、彼女たち二人を撮ってあげたりの繰り返しです。小さな男の子を連れた金髪の女性が近づいて来て3人一緒の写真を撮ってくれました。
 一緒に写真を撮るとき、ベトナム人の彼女たちはそっと手をつないできます。日本とベトナムの交流の歴史は長く、16世紀には中部のホイアンに日本人町ができたといいます。ベトナムは社会主義国ですが、市場経済の導入と開放化により目覚しい経済発展を遂げつつあります。過去から未来へとこのつながれた手の重さは一生忘れられません。それと同時に、昔は日本でも母娘や女性どうし大人が手をつないで歩くのはさほど珍しいことではなかった気がします。何げないこうしたスキンシップは心の優しさや豊かさのような気がするのですが、いつの間にか日本にはなくなってしまったとふと寂しくもありました。
河口容子
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