ベトナムの北部にある首都ハノイがこじんまりした政治の街とすれば、南部のホーチミンシティは旧宗主国フランスの香りを残す南国的な商都です。今回の出張で印象に残ったエピソードをふたつ、まさに光と影を書いてみたいと思います。
光の部分、タンソンニャット国際空港の新ターミナルが日本の円借款で昨年 8月末からオープンし、年間 800-1,000万人の利用が可能なベトナムのみならずアセアンの表玄関にふさわしい近代的な空港に生まれ変わりました。飛行機の発着を示す電光掲示板の下にベトナム国旗と日本国旗のついた記念碑があり日本の ODAで完成したことがベトナム語、英語、日本語で書かれています。同行のクライアントは「こういうのを見ると嬉しいですね。日本人として誇りに思うし、良い税金の使い方じゃないでしょうか。」と言われました。日本としても厳しい財政状態からの拠出ではありますが、日本から援助してもらったことが世界中への自慢でもあるかのように感謝の念をきちんと形にして残してくれるベトナム側の姿勢にも心を打たれます。
旧空港は薄暗く、スタッフも愛想がなく、免税店も華やかさがなく、まさに社会主義国の負のイメージそのものであっただけに、その変化率には目を見張るばかりです。パスポート・コントロールには相変わらず時間がかかりますが、環境が変われば人間も変わるのかスタッフたちも明るく立ち働いているように見えます。帰りに搭乗口のロビーのラベンダー色の椅子に腰掛け、滑走路の青い誘導灯が熱帯の景色に涼しげな光を並べているのを見るとまるで他所に来たようです。クライアントとベトナム生産を模索し始めて 2年、やっとトライアルの発注ができた安堵感、それはクライアントにとっても新しい発展の第一歩であり、ベトナムの工場で働く人たちのやさしい笑顔がますます輝く第一歩でもあります。旧空港の様子やこの仕事に関する経緯が頭の中をぐるぐると絵巻物のようにめぐり涙が止まりませんでした。
影の部分。私たちのホテルの隣のビルのシャッターの前で眠っている子どもたちを夜発見しました。母親らしき人もそばにいるのでストリート・チルドレンではなく、ここをねぐらにしている一家なのでしょうか。子どもたちの手足は泥で汚れていましたが衣服はこざっぱりしていました。物乞いをするわけではありません。もっと大きければ先週号に出てくる工場に頼んで雇ってもらうのにと残念でたまりませんでした。
翌日、夕方食事へ行く途中同じファミリーを発見。全員着替えをしていたのでそれなりにケアはされているようです。ベトナムの失業率は高くありませんが、急速な経済発展とともに物価も急上昇しています。低賃金の仕事しかない、あるいは片親の場合は落ちこぼれていく可能性が高いかも知れません。クライアントは「お金をあげるのは好きじゃないから、残っているサンプルをこの子たちにあげよう。持って帰ってもしかたないし。」と 4人の子どもたちに渡しました。私は「たぶん彼らはどこかで売って換金するでしょうけれど、がっかりしないでくださいね。」とクライアントに言いました。案の定、食事の帰り、彼らの横を通ると商品は跡形もなく消えていました。それでも母親と子どもたちは私たちに百万ドルの笑顔で会釈をしてくれました。子どもたちは商品を自分のものとして楽しむ余裕はなかったけれど、きっと何日かはそのお金で安心して過ごせるかも知れない、そう思うと心に清々しい風が吹いた気がしました。
河口容子
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