先週号でご紹介した「石垣島の唐人墓」の話を読んだ私がまず感じたことは、人道主義よりも政治体制によって歴史教育も変わる、つまり欧米にたてついた話は隠されてきたということです。たとえば、インドネシアに残った2000人ほどの旧日本兵がオランダからの独立戦争をインドネシア人と一緒に戦った話を知る日本人は少ないと思います。また、日本のシンドラーと呼ばれる故杉浦千畝元リトアニア領事代理はナチスの迫害から逃れようとするユダヤ人のために当時日本の同盟国であったドイツにそむき人道主義から日本を通過するビザを発給し続けました。救われた命数千人。日本に戻った杉浦氏は外務省から解職されます。あの鈴木宗男によって名誉回復がなされなかったらこのエピソードもユダヤ人は知っているけれども日本人は知らない歴史になっていたかも知れません。
マスメディアから発信される情報はあまりにも大量で一見あらゆる事を網羅しているかのように思えますが、それがすべてなのか、真実なのか、最近疑問を持っています。人間の行いには簡単に善悪の見極めがつくものもありますが、両面を持つものも多々あり、また世界が広がった分だけ、一挙手一投足が複雑な意味を持つようになりました。
[063]日本人の知らない日本人の歴史(1)
読者の方のほとんどは日本で教育を受けておられると思いますが、下記のような歴史をご存知でしょうか?長野県南相木村診療所長の色平哲郎先生が「日本人が知らない石垣島に残る唐人墓」と題して書かれたものを、ご本人の許可をいただいて下記に転載します。
(引用)
日本列島西南端の沖縄県石垣島、この島に所在する「唐人墓」について沖縄以外に住む日本人はほとんど何も知らない。唐人墓には、およそ次のような碑文が刻まれている。
唐人墓には中国福建省出身者128人の霊が祀られている。1852年2月、400人余りの苦力(クーリー)が、厦門(アモイ)港から米国船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途上、辮髪(べんぱつ)を切られたり、病人を海中に投棄されるなどの暴行に堪えかねて蜂起し、船長ら7人を打ち殺した。船は、石垣島沖に座礁し、380人が島に上陸した。石垣の人々は、仮小屋を建て、彼らに住まいを提供した。しかし米国と英国の海軍が三回にわたり来島し、島に砲撃を加え、上陸してきびしい捜索を行った。中国人労働者は山中に逃亡したが、百名以上が銃殺され、逮捕され、自殺者、病没者が続出した。島民は深く同情し、密かに食糧や水を運び、中国人側の被害が少なくするよう配慮した。そして事件処理に関する国際交渉に取り組んだ結果、翌1853年9月、琉球側が船二隻を仕立て、生存者172人を福州に送還した。中国ではこの事件が契機となって大規模な苦力貿易反対の機運が盛り上がった・・・
(中略)
反乱時、逃げのびた米国船の船員が中国沿海部にいた英国海軍に通報し、追及が始まった。しかし当時、(薩摩藩の支配下にあった)琉球王国の八重山政庁や島民は中国人労働者をかくまった。米英は島に砲撃を加え、武装兵を上陸させて捜索を行い、中国人たちは銃撃、逮捕、自殺などでどんどん減っていった。島民は彼らに食糧などを援助し、死者は丁重に葬られた。島民は捜索にあたる米軍と英軍にも食糧と水を提供し、なだめている。