日本人と日本国籍

 以前私の取引先であった米国系企業には多くの日系米国人が勤務していました。外見はまったくの日本人です。ところが、言動は米国人ですし、なかには日本語がまったく話せない人もいました。我々日本人としてみれば「米国人」という意識は低いので、ささいな違和感は日々ありました。そういう彼らは「米国人」であることに誇りを持っており、家族が湾岸戦争に行った人もいました。とはいうものの、米国は日本より階級差は依然として残っており、有色人種はなかなか政財界のトップにはなりにくい環境です。彼らにとってどちらにいた方が幸せなのか余計な心配をよくしたものでした。

 上の例からすると、どうやら日本人は「日本人」という概念を血統主義でとらえ、米国人は国籍でとらえていることがわかります。その実、外国人力士で日本国籍を持つ人を「日本人」と自然に思う人は少ないはずです。日系米国人も帰化した外国人も日本にいる限り「変な日本人」もしくは「変な外人」として受けとめられ、何だか気の毒な気がします。

 また、日本人は日本には日本人しかいないと思いたがる癖があります。日本の国土にはたくさんの東アジア系の人々や米軍とその関係者がいますが、日本人にとって好都合なことだけ利用し、あとは見て見ぬふりをして暮らしているような気がします。たとえば、日本で利益を得ている外国人は税金を納める必要がありますが、年金などのリターンはありません。米国なら確か通算10年以上働けば外国人でも年金受給資格者になれると聞きました。

 友人に華僑系のインドネシア人が何人かいます。彼らは4世、5世でインドネシアで生まれ育っており、また同国の政策から中国名を名乗ることもないし、中国語を話すこともできません。インドネシアでは富の8割は華僑が握っており、いわば特権階級です。自分たちはインドネシア人とはあまり思っていないようです。経済や文化の話をするとき、普通のインドネシア人のことを「彼ら」と区別して呼んでいるからです。ただし、中国人とも言いません。家族や親類が海外に住んでいるのも自慢だそうで、彼らのアイデンティティはいったいどこにあるのだろうかと不思議に思います。香港に住む知人たちも中国に返還以降は「どこのパスポートを持っているか」が話題となっています。となると、国籍というのは便宜的なもので華僑にとっては世界中が自分の国なのかも知れません。

 日本人ほど日本人であることに固執するくせに日本をあまり愛していない国民も少ないと感じます。単に排他的なだけではないでしょうか。いまだに外国人が正社員として働くことはむずかしいし、住居を借りたり、ローンやクレジットを利用するのに差別があります。外国人の犯罪があるとその国の人はすべて悪人であるかのような大げさな報道がなされ、まじめなビジネスマンや留学生が肩身を狭くしているのを何度か見かけました。

 ブラジルに住んだことのある人が言いました。「ブラジルではいろいろな民族が仲良く暮らしている。100年経ったら地球上はみなブラジルのようになるのではないか。」と。ある人も言いました。「100年したら、昔は国という区分があってね、なんて話してますよ、きっと。」ボーダレス、国際化という言葉が使われ出してからずいぶんたちますが、世界からなかなか認めてもらえないのは日本人にとって都合の良いボーダレスや国際化ばかり追い求めて来たツケのような気がします。

2001.02.02

河口容子

豊かさとは何か

 昨年ジャカルタに出張した時、華人のビジネスマンに日本の財政赤字の話をしました。彼には初耳だったらしく「日本が東南アジア諸国をいろいろ援助しているが、お金がないのにどうしてできるのか」と素朴な質問を投げかけてきました。「日本には資源がなく、工業製品を輸出している国だから外国と仲良くしていかねば生きていけない」というのが私の答えでした。そして「財政赤字は国民ひとりひとりが背負っていかねばならない」ことを。私の脳裏には自転車操業で今にも倒れそうな会社のイメージが浮かびました。

 日本から見ればインドネシアは貧しい国でしょう。実は私はそうは思いません。彼らは売るほど資源を持っています。国土も日本の5倍、人口も2億人を越しています。交差点で車が止まると一斉に新聞やフルーツを手に物売りの少年がかけよってきますが、彼らの収入は1日50セントほどだそうです。でも皆瞳を輝かせ、色鮮やかな衣服を熱帯特有の景色に溶け込ませながら毎日元気に暮らしています。寒さをしのぐ必要がない、自然の実りが食物として期待できるからでしょう。南国らしい楽天性という言葉だけでは片付けられないほど資源国の底力を私は感じました。

 一方、日本は現代文明の恩恵を享受しているかのように錯覚しますが、ひとたび輸入が止まれば電気やガスも使えない、食べるものすらほとんどなくなります。日本のお家芸であった製品輸出もアジア諸国の勢いに押されがちです。今さら自給自足の生活に戻ろうにも自然は崩壊し、人々には技術も根性もないといった有様です。私たちは脆弱な基盤の上に立っているということを忘れて「繁栄」の文字だけを追って突っ走ってきたのではないでしょうか。

 「アメリカがくしゃみをすると日本が風邪をひく」とか「アメリカで流行ったものは何年か遅れて日本にやって来る」とよく言われますが、アメリカは世界の大国です。国土も広ければ人口も多い。世界有数の農業国でもあります。資源もあるし、貿易に頼らなくても自国だけで経済は成り立ちます。いわば質、量とも兼ね備えた人です。それに比べ、日本は自分のことはすっかり忘れて他人のことばかりきょろきょろと気にしている人のようです。良いものを素直にどんどん受け入れる姿勢は日本の長所でもありますが、最近は深みに欠けるきらいがあります。

 敗戦から見事に世界の目を驚かせるほどに立ち直った日本の原動力は、日本の脆弱さを認識した上での勤勉、謙虚、礼節といった美徳であったろうと思います。そしてこの繁栄を牽引してきた方々は現役を去っていきつつあります。成人式でサルのように暴れている青年たちを目の当たりにして、半世紀間の努力が実ったあとの奢りによる堕落の象徴にしか見えませんでした。

 ある大学教授は「いくら財政赤字がふえたところで国は会社のように倒産はしません。国土があり、国民がいる限りその国は存在するのです。」とおっしゃいました。倒産する心配はないものの、再就職も失業保険もないのです。日本国民として日本に居住する限りひとりひとりが責任を負っていくのです。世界の一員としてなすべきことは何か?という議論ももちろん大切ですが、自国がどんな国であるのかも見つめ直すべきです。

2001.01.26

河口容子