裸足族の逆襲

 子供の頃にキュリー夫人の伝記を読んで感動しました。何に感動したかというと女性に理科系の勉強をさせた親が偉いという点にです。当時の日本には普通の家庭では女の子に理科系の教育をさせようという親はごくまれでした。大学に行く頃になっても女の子だから短大で十分とか4大でも女子大の方が良いという親御さんもたくさんいらっしゃいました。私自身は、女性というだけで、男性と対等に能力を伸ばせなかったら、人類が大きな損失をする、といつの間にかそう思うようになりました。 

 24年間続けたサラリーマン生活でも「仕事は自分のためにするもの」と後輩に言いつづけて来ました。本人が実力さえあれば、雇っている企業にも利をもたらすし、リストラの嵐が吹いてもおびえずにすむからです。「会社のため、会社のため」と言っている人ほど大した業績をあげていないケースがほとんどではないでしょうか。会社にしがみつくために自分をすてて来た恨みが染み付いた発言のように聞こえます。

 雑巾がけ、お茶くみ、コピー取りの3点セットからスタートしたサラリーマン生活も、雇用機会均等法の施行もあって初の総合職になることができました。社会の眼の変化とバブル・エコノミーの勢いのおかげと感謝しています。しかしながら、漫然と機会が与えられるのを待ったわけではなく、労働組合の人事諮問委員をやったり、外部セミナーで女性どうしエールを送りあったりの結果でした。「君は自分で制度を勝ち取ったんだから一生誇りに思っていいよ。後に続くただ制度を選ぶだけの女性とは違うんだから。」という同期入社の男性のひとことに、キュリー夫人の伝記の思い出や外部セミナーの先生の「女性だからという理由であきらめることは何もありません。特別な能力だけではなく、継続することも能力のひとつです。」の言葉がオーバーラップしました。

 その後の総合職としての生活も厳密に言えば、社内、取引先で良くも悪くも差別されてきた気がします。ビジネスパーソンを戦士にたとえるなら、女性の場合は体力測定も訓練も十分にしてもらえず裸足で戦争に行くようなものです。一方、男性なら新入社員でもわらじかスリッパくらいは履かせてもらっているというのに。裸足であるがゆえに時代をするどく素肌で感じ成功させている人もいるし、怪我をしてリタイアせざるをえない人もいます。「危ないからおぶっていって。」と最初から甘えている人もいます。男性の方は昇進するにつれて厚底サンダル、竹馬と履物が変わって下界から遠のいていきます。背は高くなって格好は良いけれど、だんだん早くは歩けないし、転倒の危険性すらあります。

 4年前に(財)経済広報センターから出された「2010年のかいしゃのひと」という本に「女性は男性ほど保証がなかったため職業観、労働市場ともよりフレキシブルであり、年功よりも実力主義である。案外、新時代への対応は女性のほうが早いかもしれない。」というコメントを書かせてもらいました。新卒女子の就職状況はきびしいようですが、あらゆる方面で最近の女性の活躍には目覚しいものがあります。男性の専売特許と思われていたような職場にも着実に女性は進出しています。社会の急激な変化について行けなかった厚底サンダル族に対する裸足族のひそかな逆襲です。

 厚底サンダルを脱いで裸足になりましょう。等身大でものが見え、肌で直接喜びや痛みを知ることは恥ずかしいことでもこわいことではありません。 

2000.12.07

河口容子

情報化という前に

私が総合商社に入社した24年前はまだFAXもなく、海外との交信はもっぱらテレックスに頼っていました。国際電話料金もテレックスにしても現在とは比較にならないほど費用のかかる時代でしたから、電話をかける前に内容をメモして手短に適切に話をする、テレックスにしても原稿を上司がすべてチェックしてから出すということが徹底されていました。

特に、受け取ったメッセージにすぐ返事が出ているかもチェックされました。受け取ったものに対し何らかの意思表示をしない限り相手は受け取ったのかどうか、読んだのかどうかもわからないからです。イエス、ノーはもちろんのこと、出張で本人が不在の時はかわりの人間が、その旨返事をします。あるいは終日会議で返事ができない場合も「了解。明日返事します。」と短い返事は必ず出しました。相手に無駄な動きをさせない、こちらの現状を知らせる、これが基本動作です。

 情報手段の発達により、オフィスの中に異変がおこりました。ひとり1台ずつパソコンを持って自由にFAXや電子メールで交信できるようになりました。こうなると上司の管理は非常にむずかしくなります。必ずコピーを上司におとすように決めていても、意図的にあるいはうっかり、コピーがおちないことは多々あります。また、どんなメッセージをもらったのか、返事がきちんと出せているのかすらわかりません。はなはだしきは私用のメールばかり打っていても気づかないこともあります。そういう見地からひとりずつパソコンは持たせない、メールアドレスも社員ひとりひとりに持たせない、という企業はまだまだあります。遅れた会社と思う方もあるでしょうが、私は組織としての見解やマナーの維持という観点からはそれもひとつの見識と思っております。

 総合商社に勤務中も独立した現在もですが、FAXやメールを出しても返事の来ない会社、(中には教育委員会というのもありました)が結構あります。すでに面識のある人に対して、具体的な内容の話で、おまけに「ご回答をお願いします。」と書いていてもです。1週間たっても1月たっても返事は来ない。中には催促をしても知らん顔の会社があります。あるいは電話で確認すると「読みました。」という人もいます。FAXやメールはその人にとってどうやら「読み物」であり、返事をする手段としてはとらえていないようです。あるいはパソコンで返事を打つスキルがないのかも知れません。こういう経験もあります。「詳細はともかくイエスなのかノーなのかだけでもお返事ください。」と言ったところ「私にはイエス、ともノーとも言える権限はありません。」と答えられてしまいました。要は何もしていないのです。

ところが、そういう会社に限って自分の用がある時は人の都合もおかまいなしにやって来たり、うるさく電話を何度もかけてきます。「興味がなければ返事をしない、用があればこちらから言う。」というのは一見合理的なようですが、ビジネス・マナーから言うと最低であるばかりでなく、ビジネスの種を自ら摘み取っているようなものです。私はふとしたコミュニケーションの積み重ねからすぐれた発想や成功が生まれた例をいくつも知っています。

礼儀正しさは日本人の美徳であったと思います。ところが最近感じるに上記のような失礼な会社は日本企業、特にベンチャー系の企業に多く見受けられます。新しい発想や個性と無礼講の見事なはきちがえです。むしろ外資系の企業、あるいは海外の企業にコミュニケーションに対する完璧なマナーを守っていることが多く、感動させられます。薬品も使い方しだいで薬にも毒にもなるように、情報機器が便利で安価になったことを悪用してはいけません。上手に効果的に使えるマナー、判断力を身に付けていかないと、技術力の進歩とは裏腹に人間性のお粗末さだけが目だつような気がしてなりません。

2000.11.30

河口容子