[294]ベトナム・メディアの面白さ

 今年の 5月末からぼちぼちとベトナムのインターネット・メディアに私の名前を発見するようになりました。手工芸品関連の記事ですが、昨年のセミナーから半年も経過しており英語版がないのと「ベトナム共産党新聞」や「ベトナム国税庁のホームページ」にまで出ているので何と書かれているのか気になりハノイにいるベトナム女性の友人に要約を依頼しました。案の定、日本向けの手工芸品輸出の数値目標などとともに私のセミナーでのコメントが引用されていました。どなたが執筆されたのかわかりませんが、フルネームや内容に一切誤りがないところを見ると半年前の記事をきちんとチェックしているのでしょう。まさに「覚えていてくれてありがとう」という気持ちがしました。
 2005年から2007年まで 3回セミナーを行い、その報道に関して気づいたことがあります。まず、初年度は休憩時間中に 2社取材を受け、それが元ネタとなり転載、転載という形で 2ケ月ほどいろいろなメディアに取り上げられました。なぜ頻繁に取り上げられるかと言うと、ベトナムの政府機関が主催するセミナーであり、手工芸品の輸出というのはベトナム各地に伝統産業の村がある位で特に農村部にとっては重要な産業だからです。また、社会主義のお国柄ゆえ勝手に記事は書けませんので転載が繰り返されるわけです。
 この年セミナーを行なったハテイ省(ハノイ市近郊)のメディアはセミナーの様子のビデオ・クリップつきで、当時日本でもビデオ・クリップつきのニュースは少なかったのでその先進性に驚いたのを覚えています。
 2006年にセミナーはハノイ市で行なわれました。セミナーにお越しくださったJICAの専門家の方に「大変有名な方でいらっしゃいますね。こちらのメディアでは頻繁にお名前を拝見いたします。」と言われ、何かの間違いではないかと帰国後改めてインターネットで検索すると2005年の記事は2006年のセミナーの 1ケ月前あたりまで出続けていたのです。 1年近くも掲載されるなら「次にチャンスがあれば名文句のひとつやふたつを用意せねば」と心で誓いました。
 この年からは商業省のみならず、農業・農村開発省も協賛してくださるようになり、このふたつの省の関連メディアにニュースが転載されて行くという現象が起こります。不思議なのはインタビューなしできちんと記事が書かれていることです。事前に事務局に手渡すのはパワーポイントだけです、おそらく記者もセミナーに出席し、メモを取るなり、録音をして記事をおこしているのでしょう。意外だったのはベトナム外務省の小冊子「世界とベトナム」にも詳しく紹介されていることです。
 おもしろかったのは専門的なメディアでしたが、「河口容子氏との一問一答」というのがありました。あたかもインタビュー記事のイメージがありますが、記者とは名刺交換をしただけ、「後日メールで質問をしてもよろしいでしょうか」との依頼通り、帰国後質問が5つほど来て返答したところ、それが記事になったというわけです。
 また、国営テレビのインタビューにも応じましたが、これも何度も繰り返して報道されたに違いなく自分は見なくてすんでほっとしています。
 2007年は何がおこったかと言うと、写真つきでベトナム共産党新聞に掲載されたことです。社会主義国の党機関紙ですから格が高い。おそらく今までは主催者である貿易促進局の挨拶が副局長であったのに対し、昨年は局長が来られたということに起因していると推察しています。次に農民新聞の女性記者の取材を受けました。中国の寒村とは違い、ベトナムはアジアでは日本に次いで識字率の高い国です。この女性記者も流暢な英語を操っての取材でした。日本と違いベトナムはまだまだ農民はメジャーですから、これも影響率の高いメディアといえるでしょう。
 もうひとつ気づいたのは英語版のあるメディアでもベトナム語のみの報道がほとんどだったことです。英訳するのが面倒だ、というのもあるのでしょうが、要はセミナーではベトナム製品の弱点をどう改良するか、の話題となるわけでライバルとなる海外諸国へわざわざ教えてあげる必要もないわけだからでしょう。その実、10ドルで英訳を売っているサイトもいくつかありました。ビジネスというより、代金を払うということは誰が入手したかわかるからです。10ドル出してまで自分の記事を読みたいとは思いません。なぜなら、マイナス・イメージの記事は絶対あり得ないからです。ここが社会主義の報道のありがたさでもあります。
河口容子
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[293]夢への挑戦

ある日、香港のクライアントD氏から「確かデザイン業界とコネクションがあったと記憶するのだけれど手伝ってもらえますか」というメールをもらいました。聞けば、中国の某メーカーの商品群を洗練されたものにするために日本人のデザイナーを起用したい、できれば学生か若手デザイナーたちによるコンペ形式でイベント的な要素も取り入れたいと言うのです。D氏は40歳代前半で独立する前は米国系広告代理店に勤務していただけあり、英語力、行動力、スキームの組み立てがシャープで小気味良いほど、一方手土産を欠かさず相手への配慮も忘れないというアジア人の良さも兼ね備えています。
実は2002年から国際機関のお仕事で東南アジアをまわり始めて、日本の優れた工業デザインや製造技術を再認識し、アジアの途上国向けにデザイン・ビジネスが成り立たないか模索し始めました。2005年から続いているベトナムでのセミナーも「差別化ができるデザイン」を狙いとしています。「安かろう、悪かろう」の商品を皆が一斉に作っていれば、ベトナム国内での価格競争のみならず途上国どうしの価格競争となり、貧困のスパイラルになってしまうからです。
香港のビジネス・パートナーとは 2-3度いろいろな切り口から工業デザイン関連のビジネスを検討してきましたがいずれも実現に至りませんでした。私自身は「時期は必ずめぐってくる」と信じていました。瞬間湯沸し器と言われるくらい短気な私ですが、仕事に関しては異様に粘り強く、何年、何十年かかろうとも気にしない面を持っているのは仕事は一生続けるもの、放棄はできない、と幼い日から信じて疑わなかったからでしょう。  典型的な男社会の総合商社では「いくら学歴が良かろうと実績を上げようと女性というだけで二流だ」と言われた事があります。それなら急ぐ必要はない、どうせ遅咲きの花にしかなれないのだからと思い、男性の 2-3倍の努力と粘りがあれば人並みの商社マンとして評価されるだろうと単純に思いました。睡眠不足や食事が取れなくても効率が落ちないのは丈夫でなかったがゆえ省エネモードで動くノウハウを持っているからで「人間万事塞翁が馬」を座右の銘にしているのもここにあります。配属の運もありますが、営業担当者が定年までにあげるべき収益の 2-3倍を24年間で、そのうち 6年間は非営業にいたにもかかわらずたたき出せたのもこの信念と開き直りの賜物です。
私個人は一匹狼型の性格です。不思議なことに「組織力の河口」「自分はできなくてもできる人間を即座に集められる天才」とよく言われますが、仕事においてはフレキシブルかつパワフルなチーム・ワークが好きです。たぶん他人の長所を引き出すのが好きで、違う分野の方々と出会い新しいものを作っていきたい性格からなのでしょう。
この香港のD氏の依頼にも工業デザイナーH先生以下20人近くの若手デザイナー、製造面でのサポートを行なう別働隊と数日の間にチームが出来上がりました。 中国でデザイン・ビジネスを行なうには大きな意義があります。中国は偽物天国です。偽物を作れば手っ取り早く利益になります。デザインを起こし、オリジナルを作るには費用も時間もかかり、次には売れるかどうかというリスクも背負います。そこをどう決断し、理解してもらえるか。私の挑戦はまだまだ続きます。
河口容子