[220]団塊の世代の行方

 今年から団塊の世代の定年退職が始まります。団塊の世代とは一般的に昭和22年から24年に生まれた方をさすようです。技術移転関連のお仕事でコラボをさせていただく企業の社長によると、最近65歳から75歳くらいの方が開発された案件を扱う事が多いそうです。この年齢の方々は戦後の製造業の復活をゼロから支えた世代で原理原則をよくご存知で蓄積された技術、ノウハウ、経験の圧倒的な量と質にあるそうです。また、この社長が公的団体に勤務されていた時代から海外へ派遣されるエリート技術者はずっとこの年配の方々のようです。幸か不幸か、このゼロからスタートするという経験が団塊の世代には継承されておらず、定年を機に活躍される方は残念ながら5%程度と見ておられるようです。この社長ご自身が団塊の世代であり、 1万人以上の技術者とのネットワークをお持ちだけに信憑性がある話として受けとめました。
 私自身は団塊の世代の少し下ですが、総合商社の勤務時代に「これぞ商社マン、日本経済の尖兵」というような働きで印象深い大先輩は昭和一桁生まれから団塊前世代でした。個性的で光る人材は私と同年代か、それより下でした。政治の世界も団塊前の小泉首相からいきなり団塊下の安倍首相にバトンタッチしています。学生時代は学園紛争などで社会を変えると命をかけて闘っていたはずの団塊世代が社会人になったとたん手のひらを返したように旧体制に飲み込まれてしまった、というか洗脳されてしまったのか、あるいは変わり身が早いのか、私にはとても不思議、かつ多少不満感を持っています。
 団塊の世代が成し遂げたのは新しいライフスタイルの完成でしょう。日本社会にあった上下の関係から水平の関係に重きを置くライフスタイルです。米国式の夫婦単位、それも友達夫婦的な関係、親子関係もかつては社会に恥ずかしくない子どもを育てるのが親の責任という概念から解き放たれたと同時に父権も失くしたような気がします。男女平等、女性の社会進出という空気はあっても、女性の大学進学率はまだ低く、都会のサラリーマン家庭では専業主婦がほとんどという意識と現実がアンバランスだった世代でもあるかも知れません。
 退職後に彼らが変えるだろうと思うのはやはりライフスタイル面で、海外でのロングステイ生活者が増加するであろうと思います。団塊世代には海外駐在経験者も多く、また海外旅行もごく一般のものとなっているからです。東南アジア諸国ではリタイアした日本人のような「金持ちの消費者」を大歓迎でいろいろな制度、施設やサービスが整いつつあります。途上国では生活費が安い、あるいは日本と同じ生活費で豪華な暮らしができると期待される方も多いかも知れませんが、経済難民ではないのですから、それだけを目的にされないほうがいいと思います。日本人が納得できるだけの設備を備えた住宅環境は驚くほど安いものではありませんし、日本への里帰り費用も含め、外国人であるがためにお金で解決しなければならない事も生活をする以上は出てくるはずだからです。また、短期間の旅行では気にならなくても、長期間生活をするには耐えられない事柄がないかのチェックも必要です。まず候補地をいくつか決めて、パッケージ・ツアーを利用するのではなく、ご自分で航空券を買い、ホテルを予約して視察をされてはいかがですか?観光と違い、生活者としての視点で見る海外旅行というのもきっと新鮮な体験になるものと思います。
河口容子

[219]待ちわびる便り

 国際ビジネスの世界にいると12月の中旬あたりからはクリスマス休暇を取る取引先もあったりで、クリスマスカードを準備して、次に年賀状という山のようなデスクワークがありました。会社員の頃は虚礼廃止ということで会社としての年賀状はなく、日本の取引先には自前の年賀状をせっせと書いて送っていました。最近は eメールのグリーティングカードやその携帯電話版も普及し、また単に儀礼上のものなら送らなくてもといいのではないかという感覚が国際的に広がっているような気もします。
 先週号「共感のビジネス・クリエイター」の最後で触れたシンガポールの上場企業の常務に日本企業との面談日が決まったと伝えたのはクリスマスも間近だったと記憶しています。彼は11月の末から3週間休暇を取っていたため、「休暇明けの何よりのプレゼント」と言って喜んでくれました。出会ってからこの面談のセットまで実に4ケ月がたっており、彼にとっては待ちわびた知らせだったのでしょう。私自身は会社員の頃、取引を開始するのに1年かかった取引先が2社あります。こういう時の私はなぜか絶対大丈夫という自信があり、相手も根負けするほどの粘り強さを発揮します。おかげで良い商権として会社に残して出て行くことができました。それに比べると4ケ月はたいした事ではありませんが、シンガポール人にとっては大変な忍耐だったと思います。そして「準備が大変なので、あなたが年末年始ちゃんと休めると良いのですが。」と気遣ってくれました。細心にして大胆な私の性格を見透かされた感がすると同時に、この配慮が体調を崩していた私に大きな癒しを与えてくれました。
 実は私にも待ちわびている便りがあります。2006年7月27日号「マヨンの麓からの手紙」に出てくる知人からの無事の知らせです。12月1日に台風21号によりこの地域で泥流被害がおこり、 4日付のロイター電では「死者1,000人にたっするおそれ」と報じられ、その後の報道がありません。ロイターはダラガからレポートしており、知人の家はまさにそのダラガにあります。ライフラインは絶たれているというものの念のためお見舞いのメールを出しました。ずっと返事がないため、そこから車で2時間のソルソゴン市の別の知人に様子をたずねました。これも返事なし。被害は広範囲にわたっているとの事ですがアセアンの地方都市のインフラの悪さはこういう時に露呈します。
 次なる手として日本のフィリピン大使館の知人に電話をしてみました。ここも詳細情報は一切入ってこないと言います。フィリピン関連の次のニュースは「アセアンの首脳会議が台風の接近により中止」ところりと変わったのです。1,000 人もの犠牲者の懸念があり、15万戸近くが被害にあったというのにこんな事があって良いものでしょうか。まるで人命無視、地方の切捨てです。
 12月29日、ダラガの知人にメールを再送してみました。今度はレガスピ市にあるプロバイダー会社から「現在メールはつながらないが5日後に自動的に再送する」との連絡がありました。どうやらプロバイダー会社の機能は復旧したようです。あとは1日も早く本人から家族全員の無事の知らせが来るのみです。
河口容子