[062]危機意識の国際化

 イラクで外交官二人が殺害されました。これがテロだとしたら日本人もいよいよ標的になっているということです。政府の狼狽ぶり、特に小泉首相や川口外相の対応を意地悪く観察していると、やっとこのお二人も当事者意識がわいてきたように思えました。折りしも、ブッシュ大統領やヒラリー・クリントン上院議員が選挙のためのパフォーマンスかも知れませんが当事者らしく力強くバグダッド入りした報道のあとだけに、日米の差を強く感じました。
1988年ごろのことです。当時のニューヨークは日本人からすれば想像もつかないほど危険な所でした。まず教えられたのは歩道の歩き方で、車道側はひったくりに遭うので歩くな、ビル側は建物と建物の間に人が潜んでいて引きずりこまれるので歩くな、冬場だったのでショルダー・バッグをコートの中にかけるように、との事でした。確かに初日からビルに立てこもったライフル男をニューヨーク市警が逮捕をしに行くシーンに遭遇。夜はミッドタウンのオフィス街の中かヴィレッジかソーホーあたりでなければ歩くということすらできず、摩天楼の間からのぞく空は切り絵のように小さく、緊張感と疲労で 2日目から流行していた悪性の風邪に見舞われ、せきと熱と戦いながら 3週間で 8フライトした思い出があります。

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[030]戦争が残すもの

 イラクの少年アリ君は爆撃により両手と家族全員を失いました。これから長い一生引きずるであろう心の痛みを思うと悲しくてたまりません。また、負傷したイラク兵の看護をする米兵の姿を見て戦争の矛盾を感じざるを得なかった人がいるでしょうか。
 イラクでは多くの市民が犠牲になりました。反対に戦死する米兵もまだ若い低所得層の人が多いと聞きます。「フセインは独裁者、国民を自由にするために戦う」というスローガンは理解できなくもありません。いつの世にも多くの幸福を得るにはいくらかの犠牲は必要とします。(時には一握りの人の幸福のために多くの犠牲を必要とした時代もありましたが。)しかし、個人のレベルで考えると一人の死やハンデを背負うような重症はあまりにも重く、家族にも長く影をおとすものとなります。
 私の実家はもともと貿易商で終戦までは中国から中近東に至るまで40ヶ所ほどのオフィスと工場を持っていましたが敗戦によりすべてを失いました。天津のオフィスだけでも当時東京都の年間予算ほどの資産があったそうです。新宿にあった家は日本の政府に接収され、祖母は広島で被爆し1963年に62歳で白血病で亡くなりました。戦争というのはあらゆる国家権力が人の命も財産も惜しみなく奪うものです。私の父も1964年に40歳になったばかりで亡くなっています。今思えば、お坊ちゃん育ちだった父にとっては学徒出陣、そして戦後の苦労が耐えきれなかったのかも知れません。その後も会社の倒産と戦争を知らない私にも辛い戦後は容赦なく続きました。

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