第16回 お茶

2018年8月28日

こんにちわ、永礼盟です。ご購読ありがとうございます。

近くの公園にドライブに出掛けてきました。今まで出来なかった、大人数での外出が可能になっていることに、とても嬉しい気持ちでいっぱいです。

新しい職員と、新鮮な気持ち。届かなかった所に、手が届く満足感。今まで、なぜこんなに簡単なことが出来なかったのか?根本を考えると、きりがないので、今は素直にこの喜びを噛みしめたく思います。

ホームから近いと行っても、なかなか歩いては行けない距離です。車で、何度も往復し、ホームの殆どの入居者様をお連れすることが出来ました。新緑が生い茂ったその場所に、職員と入居者様の距離が縮まる思いがしました。

普段は、見られない光景がそこには広がっていました。気分的には、ハイキングにでも来たような感があります。新緑の、マイナスイオン溢れる中に、いつもとは違うおやつの時間が始まりました。

ホーム内では、暴言を吐かれたり、時には暴力を振るわれる方も参加しました。脱走癖のある人もお連れしました。しかし、このリラックスした雰囲気の中、率先して車椅子を押してくれていたり、杖歩行の方の手を引いてくれていることに嬉しい思いになりました。

入居者様からも、「今日はKさん、とても頼りがいがあるわね。」と言われていました。そのKさんのケアの仕方を見抜いたのは、若い職員でした。知識ばかりで堅くなっているケアと違い、柔軟なのびのびとしたケア。この空気の中、やはり若い人のオーラがそうさせるのかな?と、少し若さが羨ましくなりました。そして、もう一歩引いて視野を広げると、その若さを施設長がサポートしていたように感じます。

柔軟ではあるが、完全ではない。そこに危険はないか、さり気なくチェックし、フォローしていたように思います。

笑顔と、新緑と、和んだ空間の中、見えないところで、その調和を操っている人が居る。誰に胸を張るわけではない、凄いことをさり気なくこなせる人こそ凄いと思う。そのバランスが、この日、上手く噛み合った気がしました。誰も、帰ると言い出す人は居らず、「いつまででも、緑の薫りを感じていたいわね。」みなさん、そうおっしゃられていました。

時間の経過は、変わらないのに、なぜか心地よくスローに過ぎゆく時。同じ三十分、同じ1時間なのに、素敵に感じる魔法の空間。普段の1時間と、この日の1時間。同じ時なのに、違う経過の仕方をする。嬉しい1時間、悲しい1時間、楽しい1時間、つまらない1時間。

意志疎通が難しい方に、話しかけ、お茶を楽しみ、この空間を共有しようと、入居者様同士でコミュニケーションをとられる姿を見て、当たり前に、当然に時間が過ぎていく。そんな中、こういう時間に巡り会える事が、幸せなのかな?と。この光景を見た永礼盟の頭の中で、色々なことが考えられました。

なるべく小さな悲しい時間。なるべく小さな嬉しい時間。なるべく沢山かき集めて過ごせて行けたらいいな。ちょっと前に流行った詩を思い出しながら、少しずつ、少しずつ、なるべく沢山集めて見たい。そうしたら、幸せの理由が解る気が、ほんのちょっとだけしました。どうやったら、その幸せに気が付けるのか?実は幸せというのは、気がつく物なのではないか?我々は、幸せな瞬間に出会えないのではなく、気がつかないだけなのかも知れない。『リラックス』と言う、天然の材料がこの日の幸せに気がつかせてくれたのかも知れません。

ホームに帰ると、留守番をしていた職員が、「俺、調寂しかったじゃん。マジもう留守番イヤだから。今度は、同行するから。本当もう勘弁して欲しい。」と、温かい「なまり」のあるイントネーションで入居者様に口をとがらせていました。垣田君の愛嬌のある絡みで、ホームに帰ってきた入居者様の笑いを誘っていました。車椅子の入居者様から、「今度は、あたしが連れて行ってあげるから安心しな。」そう言われ、垣田君が笑顔で返していました。

経験値と、若さと、天然の素材。ちょっとした要素が噛み合って、その日の幸せに気がつかせてくれたように思います。季節は、これからも色々な顔を見せてくれるでしょう。その顔達を、真っ新な心で共有して行けたらどんなに素晴らしいでしょう。もし、それが出来たなら、我がホーム。その枠を取っ払った物に近づけるのになぁ。まるで我が家のように。我が家に及ばなくても、みんなで幸せに気付く事の出来る空間に存在する事が出来るのに。

いつから、幸せを特別な物と感じるようになってしまったのだろう....

2003.06.12

永礼盟