[83]虐待から助ける方法はあるか?

2018年8月25日

大阪で9歳の少女が虐待死する痛ましい事件があった。未熟な親たちが非難されるのは当然だが、それよりももっと不思議なのがなぜ誰も少女への虐待、いや殺害を止められなかったのか?と言う疑問だ。彼女はベランダに締め出され、大声で泣く姿を誰もが見ていた。学校は少女が義父や実母から虐待を受けていることを知っていたのにも関わらず少女は死体となって発見された。少女を救う方法はなかったのだろうか?
今回も結論から言おう。今の社会ではどうやってもあのいたいけな少女を救うのは困難だった。あの少女は愛する親に殺されただけではない。かわいそうなことに周りの大人たちに見殺し、いや殺害されたといってもいい。虐待に関してこの国の責任ある人々は本当に頼りないし、情けない。こう言われると「いや、児童虐待には通報義務はあるし、警察や児童相談所も機能している」と反論があるかもしれない。
では、なぜあの大阪の事件ではそれらのセーフティーネットは機能しなかったのか?例えばあの事件では少女が「継父から叩かれた」と痣まで教師たちが確認したにも関わらず、児童相談所に通報していなかった。このことに対し学校はマスコミからかなり非難された。それはそれで非難されても然るべきかもしれない。しかし、学校側が児童相談所に通報したところで少女は保護されただろうか?残念だがそれも難しいだろう。
そもそも児童相談所は警察や検察のように家宅捜索や逮捕権など強制的な権力が何もない組織だ。せいぜい児童宅を訪問して様子を伺うことが関の山だろう。しかも、これぐらいなら学校側もしていた。家庭訪問しても親たちに「うちの家庭には何の問題も無い。さっさと帰れ」と言われたら何の手出しもできないのだ。
そして強制力のある警察機関はどうか?実を言うと前述の虐待事件の際、少女の悲鳴を聞いた住民の通報により西淀川署員がこの家を訪ねていた。その際、母親が「夫婦喧嘩なんです」と事情を説明。署員はこの説明を鵜呑みにしてなんと帰ってしまったのだ。強制力のある警察でさえこの体たらくでは児童虐待から少年少女を救うことは不可能だ。
病院では児童虐待の疑いがある場合、通報義務がある。実際に病院から警察に児童虐待で通報が行くことはかなり多い。しかし、通報しても肝心の警察がこれだけの「事なかれ主義」ではどうすることもできない。日本においては子供が虐待にあっている場合、殺されない事を祈る以外何もできないと言われても仕方が無い。だが、警察官たちの事なかれ主義もそれなりの理由がある。それはまた後ほど説明しよう。
福祉や教育機関、あるいは行政、司法はどうしてこれだけ児童虐待に対しこれだけ無力なのか?まずは彼らの非常に甘い希望的観測がある。言っておくが、大人たちが記者会見の度に言う「まさかこんな虐待が行われているとは気付かなかった」などは有り得ない。ごく普通の観察眼があれば、虐待の兆候などいくらでも見つけられる。彼らは恐ろしい現実を直視しようとしなかったのだ。これは特に教育界や福祉界でありがちだが、虐待の兆候を見つけてもいろんな理由を付けて正当化しようとする。「しつけ(虐待や暴行)をするのは愛情の表れだろう」
だが、現実は過酷だ。第62回「チャイルド・セイフティー(3)」でも語ったように親の体罰は愛情ゆえの行動ではない。それは欲求不満をコントロールできない未熟さの証拠と言ってもいい。成人したからといって精神的に立派かと言ったら必ずしもそうではない。中には残念なことに子供をもつべきではない精神的に未熟な大人もいるのだ。勿論、人間誰しも弱いところがある。どうしても感情高ぶって子供に手を上げる人もいるだろう。しかし、立派であろうとする大人ならば自分の未熟さを恥じ、ある程度の抑制がかかるだろう。だが、中には自分の弱さを正当化したり、自己抑制できない人もいる。
「確かにちょっと親にも行き過ぎはある。しかし、親の愛情があるのだからやがて仲良くなるだろう」
虐待の兆候を見つけても、こんな風に虐待親が自然に殴らなくなるだろうと希望的観測に逃げる福祉関係者、教育者は実に多い。だが、まともな良識を持つ親なら例え体罰肯定派でも近所の人が気付くぐらいの暴行は控えるものだ。世間体などの社会的人間としてのバランス感覚があるのが普通だ。だが、虐待死させる親はいずれも病的な深層心理の持ち主で、それが致命的にない。だから手加減が効かないのだ。
少なくとも子供に外見上にはっきり判るぐらいの外傷跡を残すなら、事態はかなり深刻だ。虐待はエスカレートするものだ。少女が泣き叫んだり痣を作るなら、いずれ命すら奪いかねないと気付くべきなのだ。激情のコントロールが利かない彼らは児童を教育するためにではなく、自分の欲求不満を解消するために殴る。だが、いくら殴っても欲求不満は子供を殴る後ろめたさに膨らみ続ける。こうなると恐ろしいことに子供が死ぬまで虐待をしてしまう。この事態を防ぐには強制的に子供を虐待する親から引き離すしかないのだ。
だが、強制的に子供を保護しても今度は別の問題が発生する。引き離した子供をどこに保護するのか?言っておくが、児童保護施設はもう満杯状態だ。民間が運営するシェルターにしても保護するお金はどこから出るのか?子供の親族にしても快く子供を引き受ける人はいないし、いても虐待親が再び接触してくる危険から守る必要がある。保護したらしたらで引き受け先を探さなくてはならないが、簡単には見つからない。児童相談所や警察官が強気に虐待親と対峙できない最大の理由がここにあるのだ。
彼らは確かに役人であるがゆえに「余計な仕事はしたくない」など事なかれ主義で頼りないところがある。だが、最大の原因は現在の日本社会では虐待児童の受入先が乏しいことにある。この問題は児童相談所や警察を改革すれば解決できるような問題ではない。あまりにも問題の根が深すぎる。日本という国の社会システムの問題なのだ。
エル・ドマドール

子どもの性虐待
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