[262]謝罪の劇場化

 「すみません」というのは奇妙な言葉です。呼びかけにも感謝にも謝罪にも使え、便利であると同時にあいまいさを持っているからです。そして会話の中で相づちのごとく「すみません、すみません。」を連発する人もたくさんいます。会社員の頃、欧米人相手には簡単には謝るな、とよく教えられました。「すみません」と言ってしまえば自分の非を認めたことになり、その償いをしなければならないからです。
 まずは習慣からと思い、私は日本語でも「すみません」と極力言わないことにしました。謝るときは「申し訳ございませんでした。」「ごめんなさい。」「失礼しました。」感謝するときは「ありがとうございます。」「感謝いたします。」と言えば良いのです。このほうが感情的にもメリハリがつきます。
 会社員の頃、取引をしていた米国の大手企業は辣腕の弁護士を社内にたくさんかかえており、彼らはノルマがあります。契約書の文言をひねくりまわして取引形態を変更することにより自社の利益をふやす、あるいは外国の取引先や場合によっては税関などを訴訟してでも利益を追求するのが仕事だからです。日本人どうしなら信頼関係ができてしまえばあり得ないようなことですが、ある日突然、肋骨と肋骨の間を槍で突付かれたような思いをしばしば経験しました。表現は悪いですが、いちゃもんをつけられたらまず実態を正確に調査し、背後にある思惑をも分析した上で、非があれば素早く謝る、と同時に補償なり対策を提示しなければなりません。時折契約書を読み返し、取引の実態と食い違いが出ていないかチェックする、その企業が海外で進行中の訴訟案件を分析して傾向と対策を練ったりしたものです。
 香港のビジネスパートナーの兄弟に上記の話をしたことがあります。兄のほうは「中国人もビジネスにシビアではあるけれどアメリカ人のように 1セントでも多く相手から搾取しようなんて考えないよ。やっぱりアジア人は他人を配慮したり尊敬したりする気持ちがどこかにあるからね。」弟のほうは香港のみならず英国とシンガポールでも開業資格を持っている弁護士ですが、「あなたのように英語で理路整然と論議できる日本人は珍しいね。相手が何人いようと負けないもんな。いいぞ、その調子、頑張れ~。」と応援団です。
 一方、日本では謝罪の美学、あるいは形式が問われすぎるような気がします。担当者どうしではお互いに仕方がないと認め合っているようなミスでも企業としては偉い人に頭を下げてもらわないとまずい、上司の捺印のある始末書を出してほしい、などという話になります。内容はどうでも、偉い人が頭を下げた、始末書が提出された、で良しとされる場合も多々あるからです。お詫びの接待狙いという場合もあります。はなはだしきは「いざとなれば謝れば何とかなるだろう」という前提で危ない橋を渡る場合もあります。
 先日のボクシングの亀田問題でも謝罪のしかたに「反省の色がうかがえる」だの「あのくらいでは納得できない」などという話題で持ちきりでしたが、それは感情論で本題は背景や原因と今後にあるのではないでしょうか。どうも日本では謝罪という行為そのものが劇場化してしまい、その反響のみが重要視されるきらいがあります。実は場数さえ踏めば、相手に合わせて謝罪など如何様にもできるようになります。私自身は謝罪の技術などには惑わされません。その後の対応に誠意があるかどうかで判断しています。
河口容子
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