[131]祈りのひととき

4月 8日にバチカンで史上最大規模とも言われたローマ法王ヨハネ・パウロ 2世の葬儀が行なわれました。私自身は信者ではありませんが、カトリックの大学を卒業しており、バチカンは身近な存在でもあり、法王は平和の推進者として国連よりも頼りにしていましたので、危篤の知らせの時点から CNNのライブの報道を追っていました。
 カトリック精神から最も影響を受けた言葉は「使命」です。法王はパーキンソン病と闘いながら、歩けなくなっても亡くなる直前まで皆に祝福を与え続けてくれました。痛々しくもありましたが、高齢者や病に苦しむ人々にとってどれだけ勇気を与えてくれたことでしょう。
 人間にはそれぞれ使命があると思います。「世界でひとつだけの花」は自分の使命をまっとうせよ、ということだと思いますし、「自分探し」というちょっと身勝手な表現も「自分の使命を知る」ことなのではないでしょうか。使命を持って生かされている自分がわかれば、安易にに他人を殺したり、自分をも殺してしまうことはないはずです。
 それにしてもバチカンに法王にお別れを告げに来た人の多かったこと。中には観光客や物見遊山の人も含まれていることでしょうが、国籍、老若男女を問わず、祈りを捧げた光景は一生忘れられないものとなりました。喪失感で泣きながら、そして感謝と永遠の命への出発を送るために湧き上がった大きな拍手。
 宗派を問わず、私自身は祈りのある場所が好きです。祈りのひとときだけ、愛と感謝の念でいっぱいになるからです。毎日仏壇に手を合わせますし、墓参にも年 6-7回は行きます。数年前、ジャカルタから華人の友人が観光で東京にやって来ました。ふだんの彼女は会社経営者で働き者ですが、かなりお茶目な人間でもあります。熱心なカトリック信者でもある意外な面を知っている私は「観光ガイドに出ていない所」と母校に隣接する教会に連れて行きました。彼女は黙って祈っていましたが、教会内での記念撮影を依頼され、「静かな祈りの時をありがとう。これで気分が落ち着いたわ。」と言ってくれました。


 フィリピンのマニラで一緒に食事をした日本大使館の方は「いざというときの神だのみ」でまじめに教会に行くフィリピン人は少ないと言っておられましたが、ルソン島の南部のレガスピに仕事で行ったとき地元の青年実業家がボランティアで休日に案内をしてくれました。レガスピにはマヨン火山という富士山をもっととがらせたような姿の美しい山のふもとにあります。マヨン火山の中腹には教会があります。山道に沿い等間隔で十字架が建てられていました。「あれは何?」と聞くと地元民は年に一度は徒歩でその十字架に祈りながら教会まで巡礼をするのだそうです。教会のところまで登ると山の頂上も見えますし、眼下にはアルバイ湾が広がり、巡礼者には天国のように見えることでしょう。また、18世紀に建てられたダラガ教会では南国らしくTシャツ姿の神父様が出て来てくださり、旅の安全を祈ってくださいました。
 アセアンのイスラム教国も私は好きです。ジャカルタに初めて行ったとき、夜明け前のコーランの事をすっかり忘れていて「大音声」に有事とばかりに飛び起き、パジャマ姿でホテルの部屋から廊下をのぞいたところ、何事もないので逆にびっくりした経験があります。この音の主は「アザーン」と呼ばれる祈りのときを告げる放送です。政府機関などに行くと正午に「アザーン」が聞こえて来ることもありました。
 戦後、日本では宗教は学校教育ではもちろん触れられませんし、家庭でも核家族がふえ家に仏壇や神棚がないのが普通となり、「祈る」ことをすっかり忘れてしまいました。法王ヨハネ・パウロ 2世は各宗教との和解に尽力され、世界の要人のみならず他宗教の代表者の多くが葬儀に参列しました。まさに「祈り」は世界の共通語であり、平和への祈りでもあるわけです。これを軽視してしまった日本の政府とマスコミの「精神性の欠如」が気になりました。
河口容子