ホンネとタテマエ、嘘とお世辞

 「人間って本当のことを言うと怒られるんですね。」と知人の30才を少し過ぎた女性が冗談まじりに言いました。田中外相が参院選の応援演説に行って態度がよろしくないと戒告処分を受けたニュースのことです。私の目から見れば田中外相は頼まれて行きたくないのに行かざるを得なかったに違いなく、またプライドの高い彼女は行かざるを得ない自分の境遇に腹を立て、知りもしない人物の応援をするという理不尽さにキレていたのでしょう。人気のある彼女が親しげに応援に行けば候補者は当選する確実も当然高くなります。そういう選挙のあり方にも抵抗があったのではないかと思え、複雑な心境を覗かせてもらった気がします。彼女の態度は社会的立場から考えれば子供じみており、正直といえばそれまでです。ここにホンネとタテマエの使いわけのむずかしさを感じました。

 大なり小なり、こういう迷いは誰にもあるもので、私などは、ほとんどの披露宴のご招待などホンネから言えば行きたくありません。結婚は本人同士が幸福であれば形式などはどうでもいいと思っているからです。また、そういう形式に多額のお金や大勢の人の時間を費やすのは無駄という考えもあります。ただ、結婚する本人が自分の部下などであれば上司が出席しなければ他の出席者に誤解を招いて迷惑をかけるであろうし、人数あわせに出てあげなければ失礼という場合もあります。その辺は臨機応変に判断し、出席すると決めたならば用意周到精一杯臨むことにしています。自分の本心に対しては嘘をついたことになりますが、他人を喜ばせてあげるのも大人の役割ですし、場数を踏むということはそれなりに学ぶこともたくさんあります。

 上の例のように自分の存在意義が多少なりともある場合はタテマエ路線で行くべきでしょうし、自分の都合だけで選べるようなケースはホンネで割り切ることにしています。たとえば、食事や飲み会に誘われたが、メンバーに興味がない、その日は忙しいなどの場合です。誘ってくださった方には申し訳ないと思うものの、いちいち気にしていたら身がいくつあっても足らず、また疲れた顔をして嫌々つきあっているのもかえって迷惑な気もするので自分の優先順位だけで判断しています。

 そしてホンネとタテマエと言えば対になって嘘とお世辞というのが私には浮かんできます。この両方は行き過ぎは不快感を伴いますが、社会生活を円滑にするスパイスでもあります。ある宝石商におもしろいエピソードを教わりました。とんでもなく太い指の女性が指輪を買いに来たそうです。「私の指って太いから恥ずかしいわ。」否定をすれば明かに嘘つきとなってしまうほどの指であったそうです。その宝石商はすばやくこう切り替えしました。「お幸せそうな指をなさっていらっしゃいますね。」お世辞ではあるけれど見えすいたえげつなさがない、感覚的でおしゃれな表現がいつまでも忘れられません。

 一般的に外国人は褒め上手です。リップ・サービスという言葉があるように他人を快くさせるのはエチケットという精神があるのかも知れません。一方、日本では無口で実直な人間の方が評価されがちですが、「お世辞のひとつもいえない」という表現で社交性のなさを指摘したりもしますので快適なお世辞が言える、つまり美しい嘘をつくセンスはますます必要なようです。

2001.08.16

河口容子

人を見る目

 参院選も予想通り、小泉人気に引っ張られ自民党の勝利に終わりました。小泉首相のあとを追いかける女子高生は選挙権はないわけで、また応援演説の田中外相目当てに繰り出す人々など、政治に関心が高まったと言えば、聞こえはいいものの、タレントに対するのと同じような興味を持っている人がほとんどで、はたして自民党を支持したのか、あるいはそれだけの興味で支持されてはたまらないという気がしました。

選挙があるたびに思うのは「人を見る目」という言葉です。議員の不祥事があると「けしからん」と大騒ぎしますが、選挙がある以上選んだのは国民で選んだ側の責任はあまり問われないのが不思議です。先日、タクシーの運転手さんと話していたら「日本は国会議員ではなく、地方議員だから」という発言がありました。その地方に恩恵をもたらしてくれたから、個人に便宜をはかってくれたから、お礼に一票というのでは、国政を任せる人というより高給便利屋に近いのではないでしょうか。

私のように都会に住んでいると何らかの団体に属していない限り、議員との接触はほとんどなく、またメリットを享受することもほとんどありません。「人を見る」機会すらない訳です。そうすると選挙のたびに誰に投票しようか迷ってしまいます。一票を託せる根拠がほとんどありません。棄権するのは嫌だし、大多数の人はついつい知人友人に薦められたというだけ、あるいはまったく知らない人に投票するより著名人の方がまだ身近に感じるという希薄な動機のみで投票しているのではないかと危惧します。

 地方でも都会でも、上記のような選挙が行われているとしたら、エゴや形式だけの選挙となっているわけで、国政を託す人を国民自らの手で選ぶという主旨とはずれているのではないでしょうか。むしろ税金の無駄遣いだからやめたらいいのではと思う時すらあります。

 ただ、考えてみれば選挙のみならず入社試験の面接にせよ、採用側と求職者が何度も会うわけでもなく、結婚相手や恋人を選ぶにも何年もつきあって人となりを熟知しているケースはごくまれです。人間社会においていかに「瞬時に人を見る」能力か大切か、あるいは「瞬時に自己を適切にアピールできる」能力が必要かを思い知らされます。

 知人で社員を採用するのに成功したためしがなく、とうとうその任から降りてしまった人がいます。逆に私は何十人と面接をした経験がありますが、失敗したことがありません。工夫していた点は、最初に採用するための要件を整理すること、書類でしぼりこんでから面接を行う、面接ではマニュアルにあるようなとおりいっぺんの会話で終わらせるのではなく、パーソナリティやその人の職業観や意欲を引き出すような雑談を多くしていたことです。

 私自身も仕事で多くの方にお目にかかりますが、なぜか学歴、職歴あるいは外見からの「思いこみ」で勝手に判断され非常に不愉快なことがあります。これは相手が男性の場合特に多い。人間をタイプ別に識別するのは男性社会の特徴のような気がしますが、「人を見る目」を柔軟に的確に養ってほしいものです。

2001.08.09

河口容子