人を見る目

 参院選も予想通り、小泉人気に引っ張られ自民党の勝利に終わりました。小泉首相のあとを追いかける女子高生は選挙権はないわけで、また応援演説の田中外相目当てに繰り出す人々など、政治に関心が高まったと言えば、聞こえはいいものの、タレントに対するのと同じような興味を持っている人がほとんどで、はたして自民党を支持したのか、あるいはそれだけの興味で支持されてはたまらないという気がしました。

選挙があるたびに思うのは「人を見る目」という言葉です。議員の不祥事があると「けしからん」と大騒ぎしますが、選挙がある以上選んだのは国民で選んだ側の責任はあまり問われないのが不思議です。先日、タクシーの運転手さんと話していたら「日本は国会議員ではなく、地方議員だから」という発言がありました。その地方に恩恵をもたらしてくれたから、個人に便宜をはかってくれたから、お礼に一票というのでは、国政を任せる人というより高給便利屋に近いのではないでしょうか。

私のように都会に住んでいると何らかの団体に属していない限り、議員との接触はほとんどなく、またメリットを享受することもほとんどありません。「人を見る」機会すらない訳です。そうすると選挙のたびに誰に投票しようか迷ってしまいます。一票を託せる根拠がほとんどありません。棄権するのは嫌だし、大多数の人はついつい知人友人に薦められたというだけ、あるいはまったく知らない人に投票するより著名人の方がまだ身近に感じるという希薄な動機のみで投票しているのではないかと危惧します。

 地方でも都会でも、上記のような選挙が行われているとしたら、エゴや形式だけの選挙となっているわけで、国政を託す人を国民自らの手で選ぶという主旨とはずれているのではないでしょうか。むしろ税金の無駄遣いだからやめたらいいのではと思う時すらあります。

 ただ、考えてみれば選挙のみならず入社試験の面接にせよ、採用側と求職者が何度も会うわけでもなく、結婚相手や恋人を選ぶにも何年もつきあって人となりを熟知しているケースはごくまれです。人間社会においていかに「瞬時に人を見る」能力か大切か、あるいは「瞬時に自己を適切にアピールできる」能力が必要かを思い知らされます。

 知人で社員を採用するのに成功したためしがなく、とうとうその任から降りてしまった人がいます。逆に私は何十人と面接をした経験がありますが、失敗したことがありません。工夫していた点は、最初に採用するための要件を整理すること、書類でしぼりこんでから面接を行う、面接ではマニュアルにあるようなとおりいっぺんの会話で終わらせるのではなく、パーソナリティやその人の職業観や意欲を引き出すような雑談を多くしていたことです。

 私自身も仕事で多くの方にお目にかかりますが、なぜか学歴、職歴あるいは外見からの「思いこみ」で勝手に判断され非常に不愉快なことがあります。これは相手が男性の場合特に多い。人間をタイプ別に識別するのは男性社会の特徴のような気がしますが、「人を見る目」を柔軟に的確に養ってほしいものです。

2001.08.09

河口容子