人は優劣をつけたがるもの。どうあっても、どうしても優劣をつけなければ気がすまない。
だって、見てごらんよ。
裁判・・・戦争・・・資本経済・・・競争・・・。
そこらかしこは優劣ばかりだ。
――昔は女が悪者にされ、今は男が悪者にされる。
そもそも、どうしてこんなことになったのかね?
悪者なしでは生きられないように・・・。
あるいは、それはシーソーの仕業とでもいうのかね。善悪、男女、陰陽はシーソーそのものだからね。
神をみてごらんよ。
悪魔をみてごらん。
これらはいったい何かね?
なんの真似なのかね?
両者はどちらも変わらないよ。シーソーの片方に男があり、もう片方に女があるようにね。
もしあなたが、神がいるといい張るのなら、悪魔がいるといい張るのなら、それはもちろんそれでいいよ。むしろ、いるというより、あなたが創りだしたといったほうがいいかもしれないね。在ると思えば、それはどうしようもなくそこに在るものだからね。
けれど、忘れちゃいけないよ。
それは何かね?
どういう類のものなのかね?
それに悪魔がいるとして、どうしてあなたがそれを非難できよう。
仮に、あなたが喜びや笑いを求め、それを獲得しようとしているなら、その裏でかならず悲しんだり泣いたりしているものがいるんだよ。
だって、そうじゃない?
シーソーは一方が得られれば、どうあってももう一方がうばわれるんだ。一方が上がれば、もう一方はかならず下がる。
あなたが幸せなら、その幸せのぶんを誰かが肩代わりしなくちゃならない。だとしたら、不幸を背負うのは悪魔にきまっている。いつも彼らが背負ってきた。
あなたは、悪魔を踏み台にして幸せをもとめてきたんだよ。
それにしても、我々はいつも、
男がいけない、
女がいけない、
怒っても駄目、
悲しんでも駄目、
――と唱えつづけてきた。
なぜ?
どうしてこうまで駄目をばら撒くの?
与えることはよくても、奪うことは悪くなる。
それは本当かね?
これらの違いはいったい何なのかね?
そもそも、男が悪くあってもいいじゃない?
それとも、どうあっても平等であらねばならないのかね?
どうしてそうなの?
どうして決めつけるの?
世界には、否定も、怒りも、悲しみも、実際に存在しているのに・・・。
だって在るものだよ。
冬がなければ季節がうしなわれる。
春だけじゃ季節にならないよ。
これじゃ、何にもなしの、笑い話にもなりやしないよ。
男が悪くあってもいい。
怒りがあってもいい。
悲しみがあってもいい。
それらは、れっきとして存在する。
それは、必要なものとして存在している。
同時に、優しさや喜びだけを求めることもないよ。
どうして、それらだけ優遇できよう?
もしそうするなら、あなたはシーソーに弄ばれてしまうよ。
つまらないことさ。
どうしても優劣をつけたいなら、
そうしなければ気がすまないというなら、
そのときは自分の都合で優劣をつけている、ということを肝に銘じておくべきだよ。
きっと、そのほうがいいよ。
椎名蘭太郎