第9回 疥癬
こんにちわ。永礼盟です。いつも購読していただきありがとうございます。お便りをくれた方、推薦文を書いてくれた方、とても励みになっております。まだまだ駆け出しの介護ヘルパーですが、どうぞ宜しくお願いします。
数日して、吉川様が退院されました。幻覚騒動やら、救急対応やら、ドタバタしていましたが、無事に帰ホームされれたことにホッと胸をなで下ろしました。夜勤スタッフは、まだ色々な物が見えてしまう吉川様に、覚悟を新たにした様子が見受けられました。夜は、幻覚に悩む吉川様のナースコールと闘う為です。勿論ナースコールをするのは、吉川様だけではないので、少し重そうな表情が印象的でした。
しかし、悪夢は、いつの間にか舞い降りて、根深くそこに住み始めていたのでした。悪夢は、始まります。
それは、猛烈な痒みを伴い、体に寄生するヒゼンダニと言う虫でした。疥癬です。近年、また増えつつある皮膚病で、きっとこの仕事をしなければ、疥癬と言う言葉に無縁だったと思うし、それを体験することなどなかったと思います。疥癬の症状は、猛烈な痒みと体中に出来る湿疹です。人の肌から肌へ感染する感染症なので、対策が必要になってきます。まず、疥癬に感染している方を隔離します。この人と接するときは、体を包む物着て、なるべく肌の露出を避けなくてはなりません。我々のホームは、病院ではありません。俗に言うケアハウスと呼ばれる物です。病院で行う疥癬対応と同じ事が出来るか?と言われると、それはなかなか難しい事でした。
吉川様は、痒みを訴えていましたが、表だって、疥癬の湿疹が見られなかった為、疥癬発見に少し時間がかかりました。自立されている方なので、体を直接見る機会がありませんでした。唯一体を見られる機会は入浴でしたが、退院後は、様子を見るという理由で、しばらく入浴を避けていたのも発見が遅れた理由の一つです。
入浴係から、吉川様の体に湿疹が出ている事を告げられ、ホームのドクターから、皮膚科受診の指示が来ます。疥癬検査のため、皮膚科に受診します。しかし、検査結果は、マイナス。疥癬に感染している疑いはないとの診断。軟膏を処方され、痒みの部分に塗るよう指示されました。ホーム全体が、ホッと胸をなで下ろしたのを覚えています。
その後、吉川様と接すると、相変わらず魚や、ドクロが見えると訴えられますが、なるべくお部屋にお伺いして、お話を聞くように勤めました。幻覚が見える人には、その幻覚を否定してはいけないと習いました。ヘルパー二級の講座でも習ったし、今のホームの教えでもそう習いました。しかし、吉川様は、それが幻覚だと、家族の方に窘められていたらしく、「幻覚だという事は、分かるんだけど、見えてしまう物は仕方がないじゃない。」そんな訴えを、お聞きするために、部屋に足を運びました。「吉川さん。今日の魚はなんですか?」そう言うと、「今日はボラ。大群が押し入れから押し寄せてくるわ。今も貴方の顔の側を泳いでいる。」私の顔を指さして、そう訴えられるので、そのボラをつまんで食べる素振りを見せてみました。「イヤだぁ!駄目よ。生では食べられないわ!」「食べちゃいました」そんな会話を真剣にしていました。吉川様は、痴呆はありません。薬の副作用で、幻覚が見えてしまうだけです。私が出来ることは、見えてしまうことの負担を、話を聞くことで発散させる事だけでした。しばらくすると吉川様が、卒倒していらっしゃいます。私の顔を指さして、「あな、あな、貴方の鼻からさっき食べたボラが、秋刀魚になって出てきたわ!」と、目を丸くして驚いていらっしゃいます。驚いたのは、本当は、私の方ですが。
しかし、そんな会話を数日続けてみると、ある日ドクロが手を振って部屋から出ていった。と教えてくれました。それ以来、お魚ちゃんもあまり来なくて、部屋が静かになったわとおっしゃっていました。早番だったある日、吉川様の顔色が、とても良い事を、本人にお伝えすると、「昨日はよく眠ることが出来たの。」嬉しそうに語って下さいました。それから、段々吉川様の具合が良くなり、お部屋で食事されていたのに、食堂に出てこられるまで回復しました。体調が、回復すると共に、我々に対する厳しい指摘も復活されたようで、食事の味や、堅さ、盛りつけ、スタッフの動き、御入居様に対する配慮。食堂で、大きな声で駄目出しされるその姿に、スタッフ一同『元気になられたね』と言う表情を浮かべていました。言葉にはない、顔の表情が伝える仕事中のテレパシーみたいな会話です。少し苦笑いをしながら私も、表情で返しました。
一本の電話が鳴りました。その電話をとった人の顔が曇ります。「ええ。はい。」相手の話を、複雑な面もちで聞き入っていました。御入居様が風邪で入院されている病院からでした。そこにいた全員が息をのみ、その人を見守りました。電話を切ると、重たい口調で内容を語り始めます。「M様から、疥癬の卵が発見された」と。
2003.04.18
永礼盟