【第28回】特別養護老人ホームの実態(17)~戦争とタブーその4~

2019年3月21日

(軍人という生き方)

E元軍曹とK元少尉の話をさっそく横道反れずにお話しようと思ったが。その前にちょっとだけ裏の裏話をすることにする。軍隊や戦争のことを取り上げて書くとすぐ右翼団体のお兄さん方が難癖つけてくるから、気をつけた方がいいよとご忠告くださった方がいた。軍隊や戦争をどういう視点から取り上げるかということが問題となると思う。戦時下を生き延びてきた世代には右翼もネオナチも特殊な世界ではなくて現実なのである。だから、辻本が戦争を語る時の姿勢は、佐久間ドロップの味も教育勅語も直立不動に敬礼したくなる神聖なものであることはお伝えしておきたい。

Eさんは、1941(昭和16年)の春に27歳で大日本帝国三重県津市第一陸軍歩兵第*部隊に入営した。いわゆる赤紙による召集であった。つまり、職業軍人とは異なる。

徴兵制とは、1872年(明治5年)徴兵令の布告に始まる。1927(昭和2年)徴兵令は廃止となったが兵役法が公布され、日本の男子は満20歳になると徴兵されることになった。越中ふんどし1つになって身長、体重、視力検査の後、軍医の前でふんどしをとって痔や梅毒を検査する方法に加えて身上についても検査が行われた。終わると順番に徴兵官が甲種、第一乙種、第二乙種、第三乙種、丙種等と判断された。身体や精神の状態が兵役に適さない者は丁種とされてほぼ徴兵免除になった。

徴兵検査で甲種合格となるのは国から「優秀な帝国臣民」(一人前の男)と認定され、「男の名誉」(あこがれ)である反面、現役徴収の可能性が高いことを意味した。徴兵検査で兵役に適するという判定された者の一部が現役兵として徴集され、その他の大多数は補充兵として在郷軍人として待機していたのである。

Eさんの四方山話によると、赤紙は役場の兵事係を兼務した戸籍係により自宅まで持参されたという。都道府県の県庁所在地に設置された連隊区司令部から地元警察に命令が出て市町村の役場に赤紙が配達された。

「夜中10時すぎだったかな。表戸の木戸が激しく叩かれた。」家中の者がでてきて、明かりをつけて戸を開けるとさ、いつも役場の片隅に黒いてっこを両腕にはめ背中を丸めた戸籍係のおじさんが国民服にきちっと帽子をかぶって立っていたんだ。「おめでとうございます。」「思わず、ありがとうございますって敬礼したもんだ。」

Eさんのような在郷軍人には召集令状は、死神の呼び出しというよりも選ばれた男の名誉を讃える通知に近いものだったと思われる。むろん軍隊に入ることがすなわち戦死をすることが前提ではない。しかし日常の仕事や生活を離れて命の危険が伴う戦地に赴き、攻撃活動に加わるということは理由はともあれ破壊、略奪、殺傷に関与するということに他ならない。対戦相手のひとり、ひとりにも、自分たちと同様家も愛する家族も生活もあるのだという意識は払拭されていくのは何故だろうか。

「軍隊に入ったらさ、いっぱいの現金で給料がもらえたんだよ。軍曹になった時は、嬉しかったよ。この金で3人の子供たちや親、かみさんに腹いっぱい飯をくわしてやれる、白い米がねと思った。」

軍隊というのは、多くの民間人にとって、国の名誉を背負った現金稼ぎの仕事、職場であり、仕事内容については極めて神聖なものであったに違いない。大義名分にしろ、正義を実現するためによりよく生きるための社会や環境をつくっていくための1つとして戦争は正当化されていったのである。

洗脳というよりも人間の脳の興奮状態をずっと維持して続けるためにアドレナリンを出し続ける異常状態である。集団催眠術にかかっているようにもみえるが、幻想と妄想の中に勝ち組として本能的に生き延びていこうとする、種族の継続を守ろうとする男性の本質に関わる欲望の実現の形かもしれない。戦いに勝つこと、すなわち生きることの尊厳と意義を守ることにつながるように思う。

Eさんは農家の5男坊であり、同じ村の中の農家に婿いりしてわずかな田畑と近隣の畑仕事を手伝いながら生計を立てていた。当時の農村は、自給自足に近いかたちで現金収入はほとんどなく、朝から晩まで働きづめでも家族全体が食べていくのはかなり難しい人々が多かった。Eさんもそのなかの一員であった。尋常小学校卒だったEさんが陸軍幼年学校、陸軍士官学校を出て、K元少尉との出会いをEさんの口をかりて語っていこうと思う。次回をお楽しみに。

2006.02.19