【第36回】在宅系老人ホームの実態(第5回)~諦めと悟りをどう開くか?~

2019年3月21日

またまたしばらくお休みしてしまう、本当にごめんなさい。心からお詫びする。今年の夏は暑かった。エアコンを昼も夜も留めることができなかった。そして辻本はデイサービスで、高齢者と平凡な日々を送った。いつのまにか、私は現場に入る週1日、午前のレクレーションの後半を担当することになった。なにか、話題提供をしてほしいというのが、職員の要望だった。ほど、週二回は通所してくる高齢者を相手にレクのネタを考えるのも至難なことである。確かにマンネリしてしまう可能性がある。

入所系のサービスとデイサービスの最大の違いは一日の流れの中で食事と同じくらい高齢者にとってレクはとても意味があり、楽しみにされている方が多いという事実である。日常の介助に大半の労働力を裂かざるをえない職員にしてみると、新しいネタを仕込むというのはかなりの時間外のエネルギーも必要である。私のように時々、忘れた頃に外の風を運ぶ人間には適役と思われたに違いない。で、私は何について話すのかというと、季節感がある外の世界の疾風として兼ねてからの死んでいくための心構えを意識した事柄である。

好評だったテーマはお盆の前の「三途の川の渡り方」、「江戸の風物詩―朝顔市とほおずき市」、「着物と浴衣」、「うどんとそば」などである。反対に不評だったのは、「般若心経」、「食中毒の予防」というあたりだった。題材は四季折々の素材を盛り込むわけだが、主題は大概人生の晩年において多少でも認識してほしいと思っていることに焦点をあてている。むろん、言いにくいこともはっきりさらっというようにしている。若い介護職員や実習生に話しかけて気長に話し相手をしてくれと頼む話をしたこともある。彼らの価値観や興味や関心も多少知って欲しいと思ったからである。高齢者を理解するように介護や福祉の現場に出る職員たちには日頃から教育して来ているが、高齢者も自分たちのウンチのついたオムツを取り替えてくれる世代について理解して欲しいと考えてきた。

ある意味では期待することが無理だとあきらめてくれという意味合いをこめることも当然あり得る。新人類をきちんと自分たちの老後のために育ててこなかった自己責任もあるのだというニュアンスをこめることもある。天に向かって吐いた唾は、やがては自分に降りかかって戻ってくるものであるということを。過去にお嫁さんをいびり倒して来た報いは必ず来るということでもある。結婚にあたって反対したことから始まって昔から仲がよくなくて、いざ身体が動かなくなって、気持ちよく面倒をみてくれるわけがないだろう。むしろ立場が逆転したことにより、無言の逆襲を仕掛けてくるお嫁さんもいる。だいたい、息子は血のつながりはるが、嫁はあかの他人であり、好きになったり、好意を持って家族になったわけではない。所詮うまく行くことが奇跡だと思うしかない。

「カサクがあるから、そこから食費と小遣いを兼ねてお嫁さんには月5万円はちゃんとあげているからなんにも心配ないから。」といつも胸はって他のメンバーに話すAさんは、コンビニのおにぎりをお昼に夕飯は出来合いのコロッケをパックごと1つのせたお盆が居室に運ばれてくる生活を実際は送っていると担当職員から聞いている。自分はお金をちゃんと渡しているから面倒をみてもらえるのだとご自分自身に言い聞かせて暗示にかけているようにデイサービスにくるたびに繰り返し話し続けるようにさえ感じてしまう。若い頃から死んだ旦那と二人で小さな魚屋を切り盛りして売り残った魚を仕出しや惣菜に作ってさらに商売3人の男の子と1人の娘を育てあげ、土地を晩年買い足し、4世帯住める貸しアパートを建てて老後の生活費を捻出してきた働き者の大正生まれの江戸っ子であった。垢で薄汚れた衣服から臭う饐えた尿の匂いがあたりに漂う時、胸が痛む辻本である。

家族に逢い、いろいろ長い家族の歴史をあれこれ聞くと家族一人ひとりがそれぞれ異なった視点からそれぞれの思いを語るのであって、結構驚くことがある。必ずしも高齢者が言っていることだけでは判断できないし、逆に家族、特にお嫁さんの言い分だけでも真相は安易に判断してはならないと思う。たとえ高齢者が痴呆が進んでいてもそうである。人間は自己や自尊心を無意識の本能のうちに守りに入り、自分の都合に悪いことは都合のよいように表現するものであるから。事情は話半分に傾聴することが辻本の相談援助の基本ルールの1つにしている。公平、中立が基本である。

次回は、デイサービスの日々の続きについてさらにお話をしたいと思う。

2006.09.23