[25]チャリティ(下)

2018年8月25日

前回のあらすじを簡単にまとめよう。
・コンビニやスーパーなどの募金箱は偽善もいいところ。そんなに募金をしたければ、自分たちの収益を寄付すればいい。
・共同募金の使い道には疑問が多い。一説には本当に「恵まれない人々」にお金が渡るのは2割ぐらいとのこと。
・「○○ちゃんを救う会」など重病者の治療費を募る募金活動はその活動内容の不明瞭さが原因で思わぬ非難を浴びるケースもある。
さて今回もチャリティについて語りたいが、その前に一つだけいっておこう。前回も言及したが、このメールマガジンは人の自由意志を犯すものではない。俺は寄付については懐疑的だが別に他人に寄付しないことを強要するつもりはない。その点誤解しないように
さて本題だが、俺の経験を話そう。
俺はかつて骨髄移植に関心があり、ドナー登録をしたことがある。かつて「純粋な福祉関係者」だった俺は骨髄を移植することにより、再生不良貧血や白血病に苦しむ患者を救いたいと願っていた。
しかし、ある日この骨髄移植をコーディネートする団体、つまり骨髄移植推進財団の実態を知り、あまりにも理想とかけ離れた実態に愕然としたことがある。この団体は今でも寄付を募っているが俺は今まで一円たりとも寄付したことは無い。寄付しても無駄になることがわかっているからだ。
2002年に骨髄移植推進財団は危機的な事態に陥る。それまでの放漫経営がたたり、財政危機に陥ったのだ。そこで止むを得ず、団体は基金の取り崩しを行う。民間なら倒産だと思えばいい。しかも財団の経営維持の為に骨髄移植の保険適応と患者負担の増大を厚生労働省に要求する始末。さすがにこの失態に批判が高まり、一部の幹部が給料の一部カットをしたが誰一人解雇されていない。結局この組織も所謂悪名高き特殊法人の一つ。国民のお金を浪費するだけの天下り官僚の住処だったのだ。彼らに患者の命がかかっていると言う責任感は全く無かったのだ。これでは移植を心待ちにする患者やその家族、そして善意のドナーが気の毒だ。
今でもこの団体は寄付を募集しているし、店などに募金箱を置いている。現に有名なスポーツ選手が大金を寄付したこともある。しかし、こんな腐敗した骨髄移植推進財に寄付しても無責任振りを増長させる無駄金になるだけだ。残念だが今は寄付する先も慎重に選ぶ必要があるのだ。
だったら信用できる寄付先はどこなのか?ユニセフ(国連児童基金)やユネスコ(国連教育科学文化機関)などはどうだろうか?現にユニセフの募金箱はよく見かけるし、あのFCバルセロナはユニセフに収入の一部を寄付して、胸スポンサーを得ている。国連機関ならきちんと「恵まれない人々」を助けてくれる。そう思いたい人々は確かに多い。
でも、あえて真実を守る羊飼いならぬ猛獣使いの俺は言う。国連など論外だ。国際連合は今や何の役にも立たない上に、ろくでなし国家に振り回される死に体組織だ。
そのいい例がフセイン政権下のイラクで国連が行った「石油・食料交換計画」の汚職疑惑だろう。このプログラムは経済制裁を受けているイラクから石油収入を国連が管理し、石油と引き換えに食料や医薬品をイラク国民に供給するものだった。しかし、このプログラムの運用で国連の幹部たちがフセイン政権から賄賂を受け取っていたのだ。前事務総長のコフィ・アナンなど息子の関与まで取りざたされ、調査委員会から尋問までされる始末。
上がこんな様ならユニセフやユネスコの国連の下部機関など推して知るべし。国連機関を通じた発展途上国への援助など独裁者へのプレゼントと化している。現にアメリカはあまりにも酷いユネスコの腐敗に呆れてしばらく脱退していたぐらいだ(現在は復帰)。
今までは寄付が「恵まれない人々」に渡る過程を問題にしてきた。では、散々中抜きされた後に「恵まれない人々」に寄付が渡ればそれでハッピーエンドだろうか?残念だが、そうは行かない。寄付を受け取る「恵まれない人々」にも問題が多いからだ。
第9号「生活保護」でも書いたが、人間というのはどうも天から降ってくるように苦労なしに貰える物にはあまり有り難味を感じないところがある。阪神タイガースの赤星は毎年自分の盗塁と同じ数の車椅子を寄贈している。そこまでは美談だが、そんな赤星の善意を踏みにじる事件が起こる。2007年4月に寄贈した車椅子をネットオークションに出品されてしまったのだ。出品者に批判が集中したため出品が取り下げられたが、誰が出品したのかはお分かりだろう。残念ながら多くの人は「恵まれない人々」は善意の人々だと信じたいようだが、「恵まれない人々」の中にも人間の屑のような連中はいるのだ。
またこのケースは寄付の別の問題点も明らかにしている。それは「恵まれない人々」にとって本当に必要ではないものが寄付される可能性があることだ。なぜ赤星の車椅子は出品されたのか?それは貰う側が本当に必要ではなかったからだ。車椅子が必要な障害者達は大抵自分で車椅子ぐらい持っている。しかも彼らが使いやすいように高さや幅、ハンドリムやフットレストが調整されているもの(オーダーメイド)もある。そんな彼らが型が同じ既製品を使いやすいと思うだろうか?
往々にして「恵まれない人々」を助けるのではなく、「寄付する」事を目的にすると必要のない善意を押し付けるだけになってしまうのだ。寄付は気軽にできるものではない。難しいものだ。
よくお金を稼いでいる人の中には国に税金をたくさん払うだけでは罪悪感が拭えないのか、たまに「恵まれない人々」に寄付をしたいと言い出す人々がいる。その寄付にも税金が課せられるのにも関わらずだ。貧乏人の俺には理解できない思考ではある。だが、寄付には多くの問題や困難がつき物だ。ではどうすればいいのか?
これは俺の持論だが、寄付に代わる最も能率的な社会貢献手段は納税と消費である。簡単な事だ。モノやサービスを購入すればお金の循環が良くなるし、納税をすれば代わりに政府が「恵まれない人々」を代わりに助けてくれる。消費はともかくとして、納税が社会貢献の手段としては多くの人は異議があるだろう。確かに今の役所の無駄遣いぶりを見ると、喜んで納税するのはよほどのマゾヒストぐらいだ。だが、本来は納税は「恵まれない人々」を救う最も効率的な投資先でなくてはならない。
この国が民主主義国家である限りは正しく税金を官僚に使わせるのは国民の責任だ。つまり、国民が怠慢だからこそ、役所が税金を無駄遣いしているのだ。はっきり言えば長年政治家や役人が国民を裏切るような真似をしても、国民はそれを放置してきた。民主主義とは好きな候補者に投票するだけではない。国家の運営に参加し、その責任を取ることなのだ。この国では納税はもはや社会貢献の手段になりえない。それこそが最大の問題だろう。納税では社会貢献を十分できないから寄付をすると言うのは本末転倒なのだ。
エル・ドマドール
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