9月 3日にインドネシアジャワ島バンドンの近くでマグニチュード 7を超す地震がありました。2008年11月 6日号「マナーブームと可愛げ」でふれたニュージーランドに住む華人系インドネシア人のB氏は夫妻そろってバンドンの出身です。バンドンは第 1回のアジアアフリカ会議の開催地と教科書で習いましたが、高地で比較的涼しく、スカルノ元大統領の出身地でもある事からインドネシアでは「カッコ良く」聞こえる所のようです。
久しぶりにB氏にメールを書き親類やジャカルタにいる彼のビジネスパートナーのE女史(彼女はこのエッセイの0号「アジア人から見たニッポン」の主人公です)は大丈夫かとたずねました。
「返事が遅れてごめん。皆無事だけど、いつも犠牲になるのは貧しい人ばかり。ジャカルタでは高層ビルの壁に亀裂が入ったらしい。母が今オランダから来ていて今回は 2ケ月ほど滞在する予定なんだ。10月には息子が結婚するんだよ。」事情は聞いたことはありませんが彼は幼い時に両親がオランダに行ってしまい、ずっとバンドンで祖母に育てられたと聞いています。彼の母親は 2年に一度インドネシアに帰って来、彼もオランダを年に 1度くらい訪問していますが、どんな気持ちなのだろうか、複雑な思いがあるのでは、と察します。
「ご家族の皆さんに心からお祝いを申し上げます。お母様はさぞお喜びでしょうね。お孫さんが結婚されるのですもの。生まれてから家族がふえた経験が一度もない私はうらやましいなあ。」 「きみは僕の家族みたいなもんだよ。都合がつけば結婚式に出てくれない?みんな喜ぶから。」私が被爆者の家族である事や幼いときから家族を失い続けた事を知っている彼ならではの優しい一言です。
「もうきみだけだよ。初めて会ってからずっと連絡を取り合っているのは。日本関係ではいっぱい友達もいたのに。S氏とJさんはいまだに消息もつかめない。」実はB氏がNo.2を務めるインドネシアの華僑財閥系のメーカーを紹介してくれたのは日本人のS氏でした。JさんはS氏の奥さんで華人系インドネシア人、B氏の元部下です。何とS氏はB氏の勤務していたメーカーに2000万円ほど未払金があるまま姿をくらましたのです。S氏と知り合ったのはB氏より前ですが、ユーモアのセンスのある明るい人でした。インドネシアの事、専門分野などについて気さくに教えてくれたものです。ところがいつ頃か不審な言動が雪崩を打って出て来ました。私は信頼していたS氏を警戒するようになりました。
「ねえ、S氏とケンカでもしたの?何か変だよ。」人の心を読みとる天才のB氏がそう言った事があります。S氏とJさんは 2ケ月に 1度はインドネシアに行き、B氏のオフィスで一緒に仕事もしていましたし、彼ら 3人で米国へ一緒に出張するくらい親密でした。私は自分の懸念をB氏に話そうかどうか迷いましたが、何一つ確証がなく黙っていることにしました。私の一言で彼らの仲がぎくしゃくするのを恐れたのと、Jさんがいる限り、彼女の故国であり、元の職場に対し詐欺まがいの事をするとは考えられませんでした。
私の事を「洞察力と想像力のおばけ」と呼んだのはSさんですが、少なくとも初めて出会った頃のS氏は少々お調子者のところもありましたが、善良な人間でした。本当に人間というのは変われば変わる恐ろしい生き物だとつくづく実感したのがこの事件でした。B氏がいつまでも彼らの事も話題にするのも、恨みではなく、彼らを変えた「何か」をつくづく残念な出来事に感じているからに違いありません。
群れてはしゃぐのが苦手な私にとって友とはB氏のように遠くから静かに生きざまを見守りあうもの、信じあうものです。
河口容子
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