第23回 踊る大捜査線

2018年8月29日

こんにちわ。永礼盟です。ご購読ありがとうございます。

梅雨が明けませんね。夏が好きな私にとっては、悲しい限りです。昨年の今頃は、異動を命じられ、新しいホームで勉強という名の下に業務をこなしていたことを思い出します。

何処のホームも、小さな問題が山積みになって居るんだと気づかされます。多少の差はあるにせよ、問題はあります。なぜ自分の居たホームだけが落ち着きのない悪いホームと言われたのか解りませんでした。悪いホームイコール職員の質。組織はそう考えて、私と他数人を他のホームへ異動させました。

今年の7月、その数ヶ月の研修のことを思い出します。組織の中の歯車。ヘルパーを目指し、スクーリングに通う頃は毎日が新鮮で、介護と言う仕事にやり甲斐を持てると信じていました。

介護、福祉、そんな世界に飛び込んだ物の、自分は組織の中の一部、もしくは駒。そんなことを思い知らされます。介護歴1年と少しの自分は、その職業に希望を持っていたことと、去年の辛い研修を、全く対照的な7月の空を見上げながら思うのでした。

最近、映画を見ました。永礼盟は、もしかすると映画鑑賞が趣味かも知れません。良く映画館に足を運びます。見た映画は、『踊る大捜査線』テレビドラマを映画化した続編でした。このドラマは、リアルタイムの頃から好きだった物でした。何処かのんびりと、お間抜けなペースに、1刑事が、事件を解決しながら、警察組織の本音と立て前に立ち向かう光景に依存したものでした。

自分は組織の末端に属します。しかし、その末端が自分は大好きである。いつも自分は、現場に居たと思う。そして今でも現場に属する。今回、この映画にも、『現場』と言う単語が登場する。

現場とは、問題が起こっているど真ん中だと自分は思っています。映画で、主人公の刑事に女性管理官が言うセリフがあります。「事件は現場で起きているのではないの。事件は、会議室で起きているの。」そう吐き捨てます。冷静に、クールに、少しの動揺もないその姿にIQの高さを感じます。このセリフの中に、沢山の想いが生まれます。ストレートな反発心はさすがに持たなかったですが、自分の組織の中にもにたような光景が、存在すると感じました。

踊る大捜査線に、自分の実生活を結びつけることが馬鹿げていますが、組織と言う歯車の中に生きている以上、現場の問題を解決することは、容易く無いと言うことです。

我がホームも、沢山の問題を抱えています。ご家族の不満も大きい事が予想されます。それでも一つ一つ、出来ることからコツコツとやって来ました。しかし、次から次へと問題が起こるのです。我々は、お客様からお金を頂き、介護と言う専門の分野でサービスさせていただきます。我が社が介護と言うサービスを提供する会社なのに、なぜ映画のような組織の醜さが生まれるのでしょうか?そこには、本音と立て前が存在するからです。

会社は、職員を組織の中での中枢であると研修します。入居者と直接接するのは、介護職員だからです。しかし、実際の所はただの駒です。あっちに人員が減ったから、こっちから持っていけばいい。そんな話し合いがされています。何処の会社組織にもある光景だと思います。違うのは、自分が『介護』と言う世界を、勝手に美化していたという事です。

理屈よりも、現場でもまれている姿が、自分の理想であり、それが出来たなら、それを貫く事がポリシーでした。大きい、小さいに変わりなく、福祉、介護を職業とされている方には、熱い気持ちがあると思います。自分にもその気持ちがありました。介護のスペシャリストになる。どんな形かは解りませんが、介護で何か役にたてる人間になりたかったのです。

こうして、民間の企業に属すると、結局自分はサラリーマンなんだと痛感します。命令は、上から下へ。そして我々は、時に貶され、時に褒められ、会社の駒として動かされていくのです。

そんな本音と立て前の中、自分は自分の思いを貫けたらと思っています。我がホーム、何かが変わってきています。映画の中で、そしてこのドラマの本質として、現場と司令塔の間の溝を埋める願いが込められています。ノンキャリアである現場の刑事と、キャリアである管理官の友情が組織を変えていく様。ここが映画なのですが、世の中の汚れを、ある程度見てきた若き施設長が、我がホームを少しずつ変えてくれています。本音と立て前を理解している人が、現場にいる。口にはしませんが、私はとても力強いと感じています。現場と会社を結びつける唯一の架け橋であると私は、思っています。

決して自分を、青島刑事に重ねていると言うことではありません。映画を見て、まるで映画を見ているように、我がホームを客観的に見てみたという話です。

頂くメールの中に、介護の風上にもおけない奴だと言う物もありました。しかし、自分は毎日、毎日、入居者と本気で向き合っているのです。どんなに魂を削られても、その訴えを受容できるよう心がけています。それが、組織の中で認められなくても、保身的で汚い自分が、自分でいても良いような掟みたいな物です。この思いを貫けたらと思います。

映画を見て、少しずつ変わっていく我がホームを思いだしたのでした。

2003.08.05

永礼盟