第24回 死~憂鬱と決意~

2018年8月29日

「ココアが飲みたかったんじゃないかしら?」

緊急カンファレンスで、誰かが発言した。何も語らず、ただその言葉を複雑な思いで噛みしめた。会社のトップ陣を交えての物だった。綺麗に、巧みな話術は並べられる。1人、2人、もっともらしい言葉で発言は繰り返される。その中の1人が、そう発言した。

問題は、振り返るのではなく、未来を見つめるという感じで進んでいった。反省はしても、そこで立ち止まっていたのでは、何もならないから。

その人、野辺様が御入居されたのは、私が前へ進めなくなっているときでした。生まれてから、一度もそう言う気持ちを味わった事が無かったのですが、仕事に行こうとすると、腹痛が起きたり、嘔吐したり、発熱したりする、出社拒否症になっていました。

これから先、とてつもない大事件が起こり、自分に降りかかってくるような気がして、恐くて仕方がなかったのです。それと同時に、私生活と仕事が混同し、何をしても仕事を忘れられなくなっていました。家に帰れば、掃除をし、洗濯をします。それが、自分の洗濯なのか、入居者の洗濯なのか?洗濯機を回すと、「ハッとして、洗濯物に名前が書いてあるか確認したり、ポケットにちり紙や、ぼろ紙が入ってないか見たりする。」掃除機をかけると、「ちゃんと、うちも掃除機かけてよね!」そんな声が聞こえてきたり、食事が終わり、食器を洗うと、「カップが黒ずんでるわよ!」そんな、入居者様の怒鳴り声が頭の中で鳴り、仕事での光景が、私生活でもフラッシュバックするようになっていました。

そんな気持ちの中、野辺様が御入居されてきたのです。誤燕性肺炎の危険性があるため、経管胃ろうでお食事をされる方でした。「おい、永礼。お前、以前に胃ろうの経験があるから、野辺様はお前が担当な。」そう営業の者から伝えられ、ホームに来る以前、病院へ申し送りを聞きに言ったのが、その一週間前でした。

家族と、病院のドクターと、ホームのナースと、営業と、私で申し送りが行われました。心の中で、なぜ私がこの場にいるのかがよく解りませんでした。1ヘルパーが、入居の申し送りを聞いている。法律的に、どういう流れで入居に至るのか解りませんでしたが、ドクターの申し送りを必死でメモを取りながら、不安を隠さずにはいられませんでした。

通常、リーダーなり、施設長なりがこう言うことをする物だと思っていたので、私なんかで良いのだろうかと思ったのです。その時、介護経験も三ヶ月にも満ちませんでした。ただ、胃ろうの経験があると言うだけで、その場にいることに不安と、迷いが生まれていました。

ホームリーダーや、ナース、経験値のある先輩達がいたからこそ、胃ろう経管の経験が出来たのだと思っています。しかし、その時はリーダーも居ない、未経験のヘルパーが多い、ナースが居ない等、不安のタネは多々ありました。そんな中、自分が得た情報を、他のスタッフと共有しろと言われ、とてつもない責任が私に乗りかかった気になりました。

やっと、リーダーが決まり、会社から期待されたリーダー補佐も配属されました。会社は、リーダー補佐に情報の共有を命じました。その中には、胃ろう経管の指導も含まれ、そんな事まで自分がやるはずだったと思うと、とても恐くなりました。

誤燕性肺炎の危険を避けるため、口からの飲食は禁止。食事、投薬は、全て胃ろうで行う。気むずかしい性格で、時折大声を張り上げるので、定期的に部屋に伺いを立てる。寝たきりではないので、レクを考える。

情報が共有され、野辺様が御入居されます。「気むずかしいのか...」どうやって接して行ったらいいのか手探りのケアが始まります。

私が思った印象は、情報とは違いました。礼儀をわきまえていれば、とても気さくな方だという印象です。お部屋にお伺いし、挨拶させて頂くと、「おぅ!おぅ!うううう!おう!おう!」と、手を上げて下さいます。「永礼盟と申します!今日も1日宜しくお願いします!」出社すると、お部屋に行って挨拶しました。

問題視されていた胃ろうのチューブをご自分で外してしまう事もなく、何で自分の体にチューブが入っているんだ?そう訴えられ、説明を申し上げると、「おう!おう!」とうなずいて、お食事をさせていただけました。

私は、仕事に行けなくなっていました。ホームに来ても、嘔吐や腹痛で、直ぐに帰宅してしまうようなことが続きました。「私、なんだかわからなくなっちゃったの。どうしたらいいの?ねえ!どうしらいいの?」そう訴える入居者様の手を繋ぎ、ナースコールでトイレ介助に行く。繋いでいた手を放した瞬間に、「馬鹿野郎!」と手を繋いでいた入居者様に殴られる。そんな日常を受け入れる事を、体が拒否するようになりました。

10日ほど休んでしまったように思います。もう出来ないと思い、退職を決意してホームに行きました。しかし、出社すればナースコールが鳴り、業務に追われます。その日を乗り越え、退職の意志を伝えました。人数も不足していることから、直ぐには無理と言われ、来月いっぱい頑張ってもらい、それでも意志が変わらなければ、考えますという会社の返事でした。

自分の考えを言葉に出来たことが、少し気持ちを楽にさせてくれました。気持ちが楽になると、普段見えなかった物が見えてきます。他の職員のケアでした。いっぱい、いっぱいだった自分の心に、その頑張りが染み入る事に癒されたのを、今でも新鮮に覚えています。あと一ヶ月、頑張ってみて、それから答えを出そう。そう思えるようになったのです。

ホームを出ると、部屋の窓から野辺様の姿が見えました。新たな決意を胸に、野辺様に会釈し、手を振ってホームをあとにしました。色々考え、他の職員に迷惑をかけてしまった事を反省しました。こんな自分を、また受け入れてくれるかどうか解らないが、もし受け入れて貰えるのなら、頑張ってみようかなと思えるようになりました。

次の日、とても気持ちの良い日でした。自転車で通勤してみようと思い、少し癒された心と、何もかもが否定的な重たい心を、自分の鞄の中にしまい仕事に出掛けました。カラッと晴れ渡る青空を見上げながら、やはり重たい心と葛藤していました。

ホームに着くと、会社のトップが顔を並べ、俄に揺れていました。その中の1人から、それは語られました。「野辺様が、昨日亡くなられました。」頭の中が真っ白になり、遠くを見つめ動けなくなってしまいました。野辺様は、ご自分で命を絶たれたのでした。

「ココアが飲みたかったんじゃないかしら?」

緊急カンファレンスで、誰かが発言しました。私は、心の中で色々な気持ちを噛みしめました。「ここは、病院とは違う。退院して我がホームに来れば、ココアが飲める。そう野辺様は信じていたのに、ホームに来てもココアを飲むどころか、口からの飲食を禁じられた。これが野辺様を追いつめたのではないか?」そう続けられました。会社のトップ陣を迎え、カンファレンスは進んでいきます。「今回のことは、家族と密にコミニケーションが取れていただけに、残念で仕方がない。」巧みな話術で、トップの発言は語られます。

我々職員が、この事態をどう受け止めているかを発言するように言われました。私は、心の奥に本音をしまい、「まだ、事態を受け入れることが出来ない」とだけ発言しました。

「ココアが飲みたかったのではないか?」この発言に、今でも複雑な思いがします。ココアが好きなら、なぜ現場にその情報をおろして貰えなかったのか?誤燕性肺炎の危険を避けるため、口からの飲食を禁止と言う情報だけが、現場の職員に降りていました。ココアを飲ませろと訴えられたときに、それは出来ないと説得してしまった自分のケアを悔やみます。「病院とはちがうのだから...」だから、誤燕性肺炎の危険があっても、否定しない。これは、詭弁ではないでしょうか?後からだから、何でも言える。もし、誰かがココアを飲んでもらって肺炎になっていれば、そこが問題になったでしょう。確かに、そうかも知れない。ココアを飲ませろと言われ、それを受容することが出来なかった。しかし、なぜその時に病院とは違うのだから、飲んでもらっても良いとアドバイスしてくれなかったのでしょうか?

重たい死でした。この死から、大分時間がたちました。永礼盟は、まだヘルパーを続けることが出来ています。なぜ続けられるかは、他の職員のおかげです。自分が苦しいとき、他の職員も苦しいのです。この時の憂鬱から、逃げたかった。しかし、頑張っている人達が居る。自分よりも人生経験が浅くても、気持ちを心の奥に隠し、入居者様に優しく接する姿がある。その姿が、逃げることを躊躇させてくれました。

きっと、私と同じ立場の人もいるかと思います。憂鬱は、全ての人に。その頭の上に、肩の上に、心の中にあるのです。頑張るあなたを見て、頑張ることが出きる人も沢山いると思います。もっと正直に言えば、誰もが逃げ出したいのです。頑張れる理由は、ほんの些細なことなのです。

そんな些細な助け合いが、我がホームを支えてくれています。我々は、介護という世界に生きていますが、所詮企業の中の歯車です。組織の一部です。我々は、機械や駒じゃない。直接、人と向き合っているのです。結果論だけで、物事を計る組織に負けないよう、自分を貫けたらと思う。それを貫けたら、どんなに醜い負け方をしても、とても輝いてる気がする。

重たい死と、新たな決意が、この時生まれたのである。

あの時、窓から野辺様は何を思っていたのだろうか?手を振る私を見て、会釈する私を見て。他の人なら、その異変に気づけただろうか?その問いが、いつまでも、いつまでも、自分の心にあるのである。

2003.08.14

永礼盟