第34回 17歳のカルテ
こんにちわ、永礼盟です。ご購読ありがとうございます。最近、よく永礼盟ってなんて読むのか?と言われます。永礼(ながれ)盟(めい)が正解です。今後とも、宜しくお願いいたします。
最近、映画を見ました。家で見たのですが、なんか共感したような、しないような、ちょっと印象に残ったので、メルマガに書いてみようと思いました。
見た映画は、17歳のカルテです。ウィノナ・ライダーが演じるスザンナが主人公。60年代が背景になっているようで、映像や音楽はそれっぽい雰囲気を感じました。結構、好きな感じです。スザンナが自殺未遂で病院に運び込まれてくるところから始まります。
当時、自殺を考えるだけで精神科に入院させられる時代だったようですが、この時の時代と、今我々が生きている時代、どっちが病んでいるのかを考えさせられました。
スザンナは、自殺未遂を犯したことで、精神病院に入院することになります。その閉ざされた空間の中に生きる人々。あらゆる精神病患者の姿がそこにはあり、彼女もその1人として生活していくことになります。
この閉ざされた空間が、老人ホームとかぶる気がしてなりません。全く違う次元の物ですが、閉ざされた空間、その中で存在価値を見いだすと言う姿に鳥肌を感じます。映画の精神病患者と、入居されている老人を見比べているのではなく、その特別な社会で、一体何が正しくて、何が間違っているのか?何が自由で、何が不自由かを思ったのです。
老人ホームでは、老後の生活を楽しむ方、在宅での介護が難しくなった方、お年寄りに限定されて入居されます。老後の生活を楽しまれている方も勿論いらっしゃいます。しかし、この特別な社会の中で生きて行かなくてはならない不自由な方もいらっしゃいます。
しかし、不自由だと思っていても、本当に不自由に感じているのだろうか?この映画の主人公は、ボーダーラインパーソナリティーと診断されます。「境界性人格障害」と呼ばれる病気だそうです。そんな病状と闘っている方もおられるのだと思いますが、映画ではその病状について深く触れていません。私が感じたことは、彼女が感じた、「自分は正常なのか?狂っているのか?」その問いかけです。はたして、自分は客観的に映画を見ているけれども、正常なのだろうか?そんな自分に対する不信感を感じたのです。
日頃、ホームで色々な光景を目の当たりにしていると、なぜこの限られた社会の中で自分の概念を押しつけているのだろうと思うことがありました。帰宅願望がある人に、なぜ帰れないと言えないのか?帰りたいから訴える。しかし、帰れない実状がある。外に出たいと訴える人の病状を考え、外に出さない事。なぜ、我々の考えを押しつけているのだろうか?外に出たい人の自由を奪うかわりに、何かが成り立っているようなその世界。一体、何が正しくて、何が間違っているというのだろうか?
スザンナは、病院の中で、アンジェリーナ・ジョリー扮する「リサ」に出逢います。物凄い存在感を植え付ける彼女の演技。スザンナだけではなく、見ているこちらも引き込まれてしまいます。スザンナは、リサに憧れ、彼女の言動に引かれていきます。そこに自由があるかの如く錯覚を覚えるからです。夜な夜な、部屋を抜け出し、こっそりとパーティーを開いてる光景。勿論、リサの仕切です。しかし、スザンナは、ある事件を切っ掛けに気がついてしまうのです。彼女たちが、精神病院という社会の中でじゃないと生きられないことを。
そこが、スザンナの回復へのボーダーラインでもあったのですが、非現実的な社会の中で、自分を見つめていくのはパワーがいると思ってしまいました。
自分の中のボーダーラインは何処にあり、長さはどれくらいで、高さはどんな物なんだろうと疑問に思いました。この限られた社会の中で一体自分は、何処にいるのだろうか?
自分を、恥ずかしいくらいに見つめ直す、見つめる事で、イジメぬくような、マゾ的な気持ちを持ちました。一体自由はなんであり、自分は正しいのか、異常なのか?
みなさんは、考えたことありますか?
2003.10.29
永礼盟