【第25回】特別養護老人ホームの実態(14)~戦争とタブーその1~
「戦争が終わって僕らは生まれた、戦争を知らずに僕らは育った・・・」という世代が、今介護の現場に携わる職員の大半である。戦争は記憶あるが、食べ盛りの子供の頃で貧しい思い出の中にあるというのが60代の後半から70代の前半あたり、戦争に行きました、夫や家族を亡くしたというのが80代の高齢者である。施設の利用者の世代交代も筆者が勤めていた頃に比べ、明治の生まれの方がほとんどいらっしゃらなくなったのはなんとも寂しい限りである。今は大正生まれの方々が多い。当然戦争を知っている世代となる。
少し世界史のお勉強になるが第一次世界大戦が始まったのが1914(大正3年)のことである。主にヨーロッパ大陸の戦争ではあったが、日本は日英同盟に基づいてこの機に及んで対ドイツ策として中国へ勢力を伸ばした。21箇条の請求で有名であるが、敗戦国ドイツの中国における利権を日本は引き継ぐのであるが、日本は日清、日露戦争後のような戦勝による好景気に沸くことはなく、軍部の勢力拡大、戦後大恐慌が始まり、不景気の波が押し寄せてくるようになる。そこへ1923(大正12年)関東大震災により日本経済は大打撃を受けることになる。
その後、昭和に入って1929(昭和4年)の米国で始まった世界大恐慌は日本にも決定的なダメージをもたらした。その後、続く1932(昭和7年)満州事変が始まり、満州国が日本の占領下で建国される。日本本土の不景気を払拭するように貧しい農村や山村から次男、三男などや農業でも食えない人々が大陸へ満蒙開拓団や満蒙青少年義勇軍としてでかけていったのはこの頃から第二次世界大戦が始まる頃までの話である。満州で働く青年のもとへ写真1枚を胸に大陸に嫁いでいった若い女性もたくさんいたのである。
第二次世界大戦が始まり、義勇軍の大半は徴兵され、乳飲み子抱えて引き上げ船に命がけで乗り、身一つで故郷に帰った者は心にたいへんな心身ともにたいへんな傷を負うことになった。満蒙開拓団の資料や手記を調べてみると慣れない極寒の荒地を開墾し、戦争がはじまると同時に土地も家も奪われ、逃げ惑った人々の悲惨な姿が露になる。夫と満州に行った、満州で幼い子供をはやり病で亡くした、幼い乳児を現地の裕福な中国人に託して日本へ帰って来た等、満州という言葉には遠くを見つめ、涙ぐむ高齢者が少なくない。満州にユートピアがあると政府は広報し、開拓団を大陸へ送ったのである。満州から引きあげてきた帰国者への援助の余裕など、第二次世界大戦で敗戦国となった日本にあるわけがなかった。極貧の生活が待っていたわけである。
満州時代に所帯を持ったSさん夫婦は、群馬県のある山村の故郷に帰って、90歳になるまで二人で、小さな土間のある小屋のような家に住んでいた。とりわけ1、2月頃は2メートルをはるかに超す積雪、冷涼な気候のため、稲は育たない土地柄なのでわずかな畑を夏の間、耕作するほかは細々と日々の生活を送っていた。満蒙開拓団で生まれ故郷をあとにした以外、その村からよその土地へ出かけることは一度もなかった。機関車にもおそらく数えるほどしか乗ったことがなかったと思う。二人だけで越冬が難しくなり、特別養護老人ホームへ入所となるのだが、自宅にはじめて伺ったときのことを今でもよく記憶している。
猫の額ほどの土間には細いひっからびた大根の束が幾つか重ねてあった。古びた障子を開けると、4畳半くらいの板の間になっている。その居間の真ん中に古い長細いまきストーブが置いてある。このストーブはその上で煮炊きができるようになっていて、なかなか優れもののようだった。このまきストーブのある部屋がSさん夫婦の唯一の部屋で、あとは台所とお風呂が土間の反対側についているだけの質素な今でいう、1DKというところか。
Sさん曰く、この山村よりももっと寒い(注:といってもほとんど1月、2月の気温は最高で氷点下だから大差ないと思う)満州に生活していた時代の習慣で、オンドルではないが、まきストーブのある板の間で、木の硬い箱枕に頭をのせて一晩中火を絶やさないストーブの周りを囲むようにしてせんべいのように薄い布団をかけて眠るのが一番落ち着くのだと話していた。
ふかふかのベッドやウォシュレット付きのトイレ、大きなお風呂に空調がほどよく一晩中効いている老人ホームの生活が、ひどくSさん(旦那さん)の精神状態を混乱させ、痴呆を進行させてしまうことになるとは当時はまだ気づきようもなかった。真の豊かさとは、安住の人生とは何かを考えてみよう。次回はSさん夫婦の話を続けます。お楽しみに。
2006.01.25