【第30回】特別養護老人ホームの実態(19)~戦争とタブーその6~

2019年3月21日

(E元軍曹とK元少尉―フィリピンにて)

第二次世界大戦において大日本帝国の戦局は雲行きも怪しく、終末にさしかかった、1944年から1945年にかけてフィリピンは日本軍占領下におかれた。陸軍が香港、フィリピン、英領マラヤ、スマトラ、ジャワ、英領ボルネオ、ビルマを支配下においていた。大本営政府連絡会議が基本方針を決めたがここで日本・満州・中国と東経90度から180度まで南緯10度以北の地域を「帝国指導下二新秩序ヲ建設スベキ大東亜ノ地域」と決定している。これがいわゆる「大東亜共栄圏」と呼ばれた地域であった。

陸軍では軍政は陸軍省の管掌とされ、南方軍指揮下の各軍に軍政部がおかれた。「南方の軍政の最大の目的は重要資源の獲得のためだったと思う。フィリピンからはマンガン、クロム、銅、鉄鉱、マニラ麻、コプラの取得を目指していたんだ。」これはEさんの南方話の一片である。あと裏では阿片の存在だったらしい。「阿片はさあ、人の心まで支配するんだよね。」

日本が占領するまでアメリカ、イギリスに輸出していたゴム、砂糖、コーヒーなどの産業はことごとく成立できなくなった。そこで働いていた労働者は職を失った。必要な工業製品は入ってこなくなった。その上、日本軍は現地自活方針をとって駐留する日本軍に必要な食糧や物資を現地調達したために物不足は深刻になった。「食べ物がなくなったんだよ。タピオカやさつまいもが一生懸命作られたんだ。」南方占領は、現地に住む人々だけでなく、日本軍の食料難をももたらしたらしい。「銃なんか、降ろしてさ、畑仕事に一緒に出ることもあったさ。」

タピオカとはキャッサバというサトイモによく似た芋から精製したデンプンである。今はタピオカはおしゃれなデザートの材料として使われているが、それそのものはけして美味しいものではない。「少尉殿はよく付近の農民が働く畑に足を運んでいっておられましたよ。」「土や水が良くない、レンガ色に近い土壌だったからさ、本当に作物を作ることが無理だって、農家出身の俺はわかって当然だけど、少尉はおぼっちゃん育ちだということ、わかっていたから何がわかるんだろうって思っていたよ。」

「植物灰を作る釜を作ろうという案を軍の上に出したらしい話を聞いてさ、何考えているんだって不思議に思ったもんだ。」「標高差がある河から水を引こうとしたのも驚いたよね。さすがに少尉殿にスコップ持たせるわけに行かないからさ。でも毎日、毎日工事の進行具合を確認に来るのにはまいった。で、英語がよくできたし、マレー語もすぐに覚えてた。だから農民とさしで話ができるんだ。」「土木工事に人足で出ていた農民の食事の準備を言い出したときには、伍長殿なんか半ば呆れていたね。」「軍隊というのは、武器を持って戦うもんだ、軍人は戦略を練り、植民地は支配するもんだと信じていたけど、少尉殿に逆らう気にもならなかったのが可笑しいよね。なんでさ、命令にいちゃもんつけなかったかっていうと上官だっていうだけじゃなかったと思う。

俺さ、女は大好きだけど、男に魅せられたっていうのは最初で最後、少尉殿だけだったね。」「貴方は農家の生まれと聞きましたが、農作物のこの害虫の天敵ってどんな動物がいると思いますか?」「古びた木の机の向こうで背筋をきちんと伸ばして俺の眼をじっと見つめてくる視線に胸が熱くなってきたんだよ。」このあたりまでがEさんの認知症が進む前の話しだった。

フィリピンをはじめとして日本軍の駐留は、略奪や拉致等が当たり前に繰り返されていたとの報告が公になっている。フィリピンでは1943年2月に第14軍司令官田中中将がパナイ島を視察中にゲリラに襲撃された事件がきっかけで粛清作戦が実施された。「あの時代は狂っていたんだと思う。」所詮侵略であった日本軍は住民から信頼されていなかったし、また日本軍も住民をいつ連合軍に寝返るかもしれない存在として、あるいは密かに抗日ゲリラに通じている者と疑っていたと考えられる。日本軍の一連の住民虐殺は戦争だからという一般論で片付けられるものではなかったのであろう。

Eさんが始めて無抵抗の人間を雑木林の崖まで歩かせて行き、銃剣で刺して谷底に突き落としたと経験をしたのはK元少尉がインドネシアに出向いていたわずか三ヶ月の間に起こった出来事であった。Eさんにとって生涯忘れることができない事件であった。次回に続く。

2006.03.07