[11]現実からの逃走

2018年8月25日

今回のテーマは俺が好きなエーリッヒ・フロムの代表作から拝借した。オリジナルは「自由かの逃走」。名作なので一度は読んで欲しいところだ。
今回は福祉従事者の適性を述べたいと思う。もうこのシリーズも「貧乏に耐えられる」「モラルを捨てよ」「フィジカル」と続いたが、この度は「現実逃避」について話そう。
俺は福祉施設に誤って(?)来た新人や実習生に必ずこう言う。
「福祉を本当に極めたいなら現実を直視しなさい。
出世したいなら現実から逃避しなさい」
言われた側は最初はどういう意味なのか解らず当惑していることが多い。だが、その意味は意識しなくてもジワジワ心身にしみこんでくるものなのだ。
第8号の「モラルよさらば」でも共通するが、福祉の職場というものはどこでも腐敗しているものだ。しかも、福祉が腐敗しているのは別に社会福祉法人や会社など経営母体の責任だとは限らない。元々福祉というのは第1号でも述べたが、社会から不適合とレッテルを貼られた厄介者を国が税金で面倒を見る制度だ。その本音と建前がかけ離れすぎていてどうしても本質が偽善的になる。
多くの人々は福祉と聞いて悪いイメージを抱く人は殆どいない。それが故に福祉の職場に働きにくる人々はどうしても理想主義的な人が多い。俺も最初はかつては「情熱的な福祉志望者」だった。あまりにも最初に持っているイメージが良心的なために現実とのギャップを受け入れることができないのだ。
俺は社会福祉施設といえば原子力発電所やゴミ処理場、あるいは刑務所と同じだと思っている。なぜか?原子力発電所やゴミ処理場も刑務所も建設されようとすると必ず地域住民の反対運動に遭う。その必要性は認めるが、自分たちの住んでいる地域に作られるのは御免というわけだ。この偽善的な地域住民エゴを英語でnot in my backyard(俺の裏庭に作るな)と言う。それぞれの頭文字をとってnimbyニンビーと略されるのだ。
ニンビズムは社会福祉施設を建設するときに見ることができる。今日び、老人施設ではさすがになくなったが今でも知的障害者更正施設、授産施設などを建設するとなると必ず地域住民の反対運動に遭う。反対する住民の意見は福祉に対する本音を赤裸々に語ってくれる。
「知的障害者を一箇所に集めて、うちの近所に作られるなんて迷惑だ。」
「もしそいつらが施設を脱走して家に侵入されて暴力を振るわれたら怖い」
「知的障害者が出てきて、農作物を盗まれたら困る」
「近くに知的障害者施設があると、地価が下がる」
「世間体が悪いし、この地区が笑いものになる」
全てが間違いだとは言わないが(知的障害者が脱走して地域住民の家に侵入して迷惑かけることはたまにある)、中には偏見としか言い様が無いものもある。ゴミ処理場同様、知的障害者の入所施設もどこかが受け入れなければならない。
24時間テレビで障害者が頑張って生きている姿を見て涙する善良な住民たちも自分たちが住んでいる地域に障害者の団体が住むとなると血相を変えて怒鳴り込む。福祉に対する偏見や本心がよくわかるいい例だろう。反吐が出る偽善だが、福祉関係者はこの容赦ない「現実」を覚悟しなければならないのだ。
しかし、殆どの福祉関係者はこのような現実を直視するのを嫌がる。現に福祉の教科書についてもこのような負の側面を扱ったものは俺は見たことが無い。福祉の歴史や制度を調べれば調べるほど悪徳や偽善が垣間見えるが誰も真実を背負おうとはしないのだ。福祉業界が現実から逃げているのにどうして福祉従事者が現実を直視できるだろうか?しかも悪いことに楽観主義やポジティブ思考などのフレーズがそのような現実逃避に拍車をかけてしまうのだ。
施設の内部でも、現実を直視して耳障りな意見を述べる人間よりも聞こえがいい理想論を押し通す人間の方が重宝されるし、出世しやすいのが現実だ。こうして福祉を取り巻く環境は現実を見ようとしない夢遊病者だらけになってしまうのだ。
現実逃避の思考回路は別に福祉に限ったことではない。今話題になっている食品の偽装にしても、同じような問題意識をもった社員はいたはずだ。でも誰も現実を直視しなかったが故に今赤福にしても会社存続の危機にまで陥っている。現実を逃避する代償はあまりにも大きい。
現実逃避を始めるとどうしても自分で自分に嘘をつく二重思考になってしまう。そうなるとどうしても人格に歪みが出てしまうのだ。人間、意図的に他人を騙す人間よりも自分に嘘をつく人間のほうが邪悪になれるものだ。
エル・ドマドール