[14]差別する介護職
前回では利用者側の問題点をあげたので、今回はフェアに介護者側の問題点をあげたい。俺は最初にこのメールマガジンを発行するときにあらかじめこのように宣言した。ありとあらゆる「聞きたくない真実を告げる」と。今回もそのようにしよう。
福祉には差別と戦って来た歴史がまとわりつく。俺の行っていた大学にも「差別問題論」など差別や偏見をターゲットにした授業があり、障害者の基本的人権を守るのが福祉関係者の使命だと教育された記憶がある。
常識的に言うと福祉は障害者に対する差別や偏見と戦うものだと思われていて、福祉関係者は差別に反対するものだ、また認めないものだと思うだろう。障害者を差別する人間は外部の無知な人々で障害者を助ける立場にある人々はそんなことはしないと福祉関係者は言う。しかし、俺はその意見には同調できないときがある。
俺は断言する。福祉関係者は思った以上に障害者を受け入れていない。多くの介護者は彼らを無意識に差別している現実がある。障害者と健常者との融和や社会参加を声高に主張するが、自分たちは障害者と本当の意味で融和してはいないのだ。
福祉に勤める人が障害者を差別する??物議を醸す事必至だが、本当のことなのだから仕方ない。俺が体験した事を語ろう。
俺が最初に勤めていた身体障害者施設でこんなことがあった。そこでは利用者も職員も同じ内容の食事を取っていた。しかし、食事の内容が同じでも使っている食器が違うのだ。そこの施設では予め意図的に職員と利用者が同じ食器を使わないように配慮されていたのだ。
これだけでも差別確定だが、若く理想主義的な俺は自分の勤める施設がこんな偽善的な真似をするとは信じたくなかった。俺は利用者と職員が違う食器を使うのはなぜなのか?何か正当な理由があるかもしれない。俺は施設長に理由を問いただした。しかし、その返事は恐ろしいものだった。施設長は次のように言った。
「利用者から何らかの病気を移されるかもしれないだろ?感染予防のためさ」うすうす利用者と障害者が違う食器を使うのはろくでもない理由だろうとは予期していた。しかし、予想はこの答えで確信に変わった。
食器は毎回きちんと洗浄されている。そもそも食器を同じにしただけで移る感染症とはなんだろうか?人種や障害者であるかどうかで出される食器が違うレストランがあったら、どうなるだろうか?多分マスコミの格好の餌食になるはずだ。
MRSAや疥癬で利用者を隔離するケースは多い。しかし、その根拠は偏見に近いものだ。MRSAはそもそもメシチリンと言う抗生物質を湯水のように使いすぎて黄色ブドウ球菌がメシチリンに耐性を持ってしまう病気だ。抗生物質の乱用を止めなければ意味がないし、部屋を隔離しても本人を傷つけるだけだ。
疥癬はビゼンダニが人間の皮膚に卵を産みつけ繁殖し、体の至る所に丘疹ができてとても痒くなる。ビゼンダニは人間の体温環境でなければ生きられないため、人体の接触でしか感染しない。感染者が他人にべたべた触りまくるなら仕方ないが、そうでないなら隔離は行き過ぎだ。そもそも疥癬は介護者が媒介しているのが現実なのだ。
俺はいくつかの施設で感染症の対応を見てきたが、その殆どは差別主義と偏見に基づく過ちだった。科学が発達し、理論的に感染症の事が解明されてもやっていることは中世の魔女狩りと大差ないのだからあきれてしまう。原因の一つに施設関係者の無知があるのは否定できない(そもそも専門職のはずなのに無知なのも許されないが)。しかし、そのベースには障害者や要介護者への差別感情がある。
現実俺が勤務した別の老人施設は「幸運なことに」食器を利用者と職員で分けることはしなかったが、それでも職員の中には「利用者と同じ箸は使いたくない」という人がいた。トイレなども利用者と障害者を別にしている施設が殆どだろう。別にする必要性など無いはずだが無意識の差別意識が垣間見える。
少し関係の無い話になるが許してほしい。介護職とはつくづく観察する商売だ。そして観察して得た情報を分析して現状の問題解決に役立てる。それを外来語でアセスメントと言う。我々の相手は言葉で正しく自分の置かれた状況を説明できない人々が多い。たとえ言葉で説明できても、それが本当に正しいのかわからないことも多い。だから、本人の言動や周りの状況、疾病などを含めて総合的に分析する必要があるのだ。このアセスメント、別に利用者だけに使えないわけじゃない。介護をしている職員に当てはめると、意外な真実が見えてくる。そう、受け入れられない真実が。
よく老人施設やデイサービス、または障害者施設に行くと、よく派手な模造紙や色画用紙を駆使した飾り付けがしてあることが多い。今の季節ならちょうどクリスマスの飾りつけなどが大人気だろう。だが、この飾りつけ・・・よく見ると保育園などにあるそれと大して変わらないことが殆どだ。つまり、職員はいい年したはずの老人や障害者を子供と同等に見ているのだ。
こういう分析を突きつけると大抵の福祉関係者は嫌な顔をする。中には俺を嘘つき呼ばわりしたり、酷いのになると「お年寄りを見下している」など問題を摩り替える人もいる。(このように本音と反対のことを強調するのを心理学で「反動形成」と呼ぶ)。だが、真実は明らかだ。大人が集まるところでこんな子供じみた飾りつけなどをしているところは無いだろう。
普段職員同士では利用者を一人の人間として大事にしよう。尊厳をもって接しようと訓示を垂れておきながら、目の前には子供じみた飾り付けがある。これではM・スコット・ペックの「平気で嘘をつく人たち」ではないか。第11号「現実からの逃避」でも述べたように人間、意図的に他人に嘘をつくよりも自分に嘘を付くほうが邪悪になるものだ。
ここで言っておきたいが、差別や偏見は誰にでもあるものだ。それは人類の普遍的な歴史が何らかのスティグマを理由にお互いに差別して来た歴史でもあるからだ。なぜ差別するのか?それは単純に言えば、自分の中の不安や無知を「決め付ける」ことにより解消したいが為である。その「決め付け」が正しいかどうかよりも不安を和らげることの方が人間社会では優先するのである。
俺自身はもう読者諸兄にもわかるように偏見と差別意識がある。障害者や要介護者の老人にも心底から分かり合っているとは思わない。見下している部分があるのは事実だ。それはおそらく自分の中にまだ彼らに対してわからない部分があるからだろう。これからもそれを追っていかなければならない。介護とはずっと探求の旅でもあるのだ。
差別意識を持つこと自体は仕方ない。だが、自分自身の邪悪さに目を逸らすからこそ人は本当に邪悪になってしまうのだ。苦い真実よりも甘い嘘に浸る介護職員には次の言葉を贈ろう。今では差別だと非難されるかもしれない表現だが、なかなか本質を捕らえていてこのメールマガジンにふさわしい。
―彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするならふたりとも穴に落ち込むだろう マタイ伝15章14節
エル・ドマドール
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