[48]障害者スポーツ??(下)
前回はパラリンピック中心について話をした。今回は障害者スポーツの問題をもっと掘り下げて語りたい。
今回は先ず俺の体験したエピソードを紹介しよう。俺が初めて勤めた福祉業界は身体障害者施設だった。そこで年に1回開催される障害者のスポーツ大会に参加したときの事だ。俺はその時に改めて障害者スポーツの意義を再考することになった。パラリンピック同様その大会も障害の重さで参加者を振り分けていた。例えば脳性麻痺なら立位が取れる人のカテゴリー、車椅子の人のカテゴリーという風にだ。
その参加者の中に筋ジストロフィーの女性がいた。彼女はソフトボール投げに登録していた。多分どこの施設もそうだが、筋ジストロフィーの障害者でスポーツ大会に参加できるADL(日常生活動作)を保持している人はそんなにいないだろう。その大会の時も地域から多くの障害者施設の参加があったが筋ジストロフィーの競技者は他にいなかった。そこで彼女一人で競技を行うことになった。ライバルはいない中、戸惑いながらソフトボールを投げる彼女。当然1位で金メダルだった。
「良かったね!金メダルよ!」「おめでとう」と喜ぶ取り巻きの健常者をよそに彼女に喜んでいる様子は皆無だった。そりゃそうだろう。一人しかいない、しかも棄権さえしなければ貰える金メダルを果たして誰が喜ぶのか?喜んでいるのは周りの職員だけだった。俺はこの光景を見て、あまりにも異様な障害者スポーツの現実に驚くばかりだった。
*筋ジストロフィー・・・筋細胞が変性、壊死する進行性の遺伝子疾患。どんどん筋力が衰え、やがて死に至る。原因不明。
このような事態は障害者スポーツでは珍しくない。近年、小学校でも徒競走で順位を付けない事が議論を呼んだが、同じ事は障害者スポーツの世界ではとっくに始まっている。評価や順位付けを避ける傾向が強く、悪平等が蔓延っている。障害者の身体能力は格差が大きく、独歩のカテゴリーでも100メートル走をすれば、1位との差が数十秒どころか分単位になることもある。もう分単位の差になるともう努力云々の問題ではない。元々もっている身体能力が違いすぎるとしか言いようが無い。皮肉なことに全くのガチンコ勝負にすると健常者よりも差が大きくなるのだ。
このような差を見せ付けられると、弱者の障害者は努力では追いつけない差に一発でやる気をなくしてしまう。だからこそ平等主義を施すのだ。しかし、平等主義はスポーツの本質であるダイナミズムを骨抜きにしてしまう。スポーツが面白いのは簡単に言ってしまえば勝者と敗者がいるからだ。コンマ何秒かの差、数センチの差が勝者と敗者を分けてしまうその厳しい現実がドラマを生むのだ。
理想主義者は「敗者というレッテルを貼るのは良くない」とよく言う。しかし、クーベルタン男爵を引用するわけじゃないが、「勝つことよりも参加することに意義がある」のがスポーツの真髄ではないのか?残酷な事にスポーツの世界は勝者よりも敗者の方が多い。たとえ敗者になったとしても、勝者になるために努力した過程、あるいはスポーツそのものを楽しむ過程にこそ意義があるのだ。「勝利以外意味が無い」のであればドーピングを正当化する論理とどこが違うのか?裏返せば教育現場や障害者スポーツにおける敗者を認めない平等主義は参加することの「付加価値」を与えることができていない証ともいえるのだ。
俺が紹介したエピソードはあくまでも障害者施設に入所している人の話だが、国内パラリンピック級のレベルが高い大会になると事情が全く違うことを話しておく。車椅子バスケットなどを見て、障害者とは思えない見事な車椅子コントロールとスピードに驚く人は多いと思う。あのレベルになるともう平等主義などなく、本当の真剣勝負になってくる。
しかし、俺は敢えて言うがパラリンピックに参加できる程のアスリートはとてもじゃないが「障害者」とは呼べないと思う。ADL(日常生活動作)は自立していて、仕事をしている人も多い。しかもスポーツに参加する余裕がある。あれでは「障害を持った健常者」という方が俺にはぴったり来る。俺が知っている本当の「障害者」はスポーツを楽しむどころではない。施設に入居している重度の障害者は日常生活の大半を他人の介助に頼らなくては生きていけない。入浴、更衣、排泄を自分でできないのにどうしてスポーツができるのだろう?
前号で話題にした知的障害者のバスケットボールも本当に施設に入るような重度な知的障害者の場合、まずルールを理解させるのが難しい。ボールを持っても、ドリブルやパス、シュートもせずにただ所在無さげに突っ立っている人は多く、プレイさせること自体難しい。多少プレイができる知的障害者でも真剣に反則を取れば、ファウルやトラベリングだらけになってしまう。
ノーマライゼーションの理念のもと、様々なスポーツ大会が開かれてきた。しかし、パラリンピックは一部「障害を持った健常者」だけしか招待状が来ないのが現状だ。彼らには報道などでスポットライトが十分当たるが、その光は底辺の障害者まで届いていないのが現実だ。ノーマライゼーション(普遍化)とは裏腹に障害者スポーツは障害者間の格差が出る皮肉極まりない代物だ。
ノーマライゼーション・・・英語で普遍化という意味。この場合、障害者がいるのが特別でなくそれが当たり前の社会を目指すという理念。
エル・ドマドール
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