[67]障害受容(2)
前回に続き今回も障害受容について語ろう。さてこのメールマガジンでは「学校では教えない」事を語ることにいつも重点を置いている。その考えと矛盾するようだが一応学術的な障害受容についても語っておく。
障害受容は大きく分けて5つの過程に分かれる。
(1)ショック期・・・障害を負ったことによる驚きと戸惑い。
(2)回復への期待期・・・障害を否定し、現実から逃避しようとする。物理的に回復できないと言われてもなかなか受け入れない。
(3)混乱の苦悩の時期・・・・やがて障害が簡単には治らないことを知る。絶望と怒り、抑うつにおちいる。
(4)適応への努力期・・・葛藤を繰り返しやがて障害を受け入れ始める。
(5)受容期・・・自分の障害を客観的に冷静に振り返り始める
それぞれの理論の違いにより、いろんな表現の違いはあるが、障害受容の過程の主なものがこれである。しかし、ここまで書いておいてなんだが社会福祉士や介護福祉士の試験を受けるのでないならこれらは忘れてもいい。なぜかというと現場では役に立たないからだ。
人間の心理というのはフロイトの時代から研究が進められているが未だに暗中模索の状態で複雑極まりないのが実情だ。他人(健常者)が障害者を見て「この人はまだ混乱と苦悩の時期だな・・・」とわかる程単純なものではない。障害を持った人間の気持ちや心理は障害を持たない人間には残念ながら本人ほどリアルに理解できないのが現実なのだ。
先ほど述べたように人はなかなか他人の気持ちを理解できない。だが多くの福祉関係者はこの愚に挑戦したがる。彼らは介護者をはじめ、福祉関係者、家族、医療関係者が協力して障害の受容を助けられるのではないかと思い込み、障害の受容を本人にさせようとする。だが、それは傷口をさらに広げるか、自分の殻に閉じ込めてしまうかのどちらかだ。ここではっきり言っておく、周りの人間が何を言っても何をしても障害受容をさせることはできない。それどころか障害受容を助けようとした福祉関係者の試みは全て裏目になってしまっているのが現実だ。
そもそも障害を体験していない人間が障害受容を進められるということ考え自体が傲慢極まりない。阪神大震災や福知山線の脱線事故、そしてベトナム戦争やイラク戦争などが原因のPTSD(心的外傷後ストレス障害)にしてもカウンセラーや精神科医がいくら束になってもなかなかPTSDからの回復は出来ていないのが現実だ。悲惨な体験をしていない人間がいくら言ってもその体験を心から分かち合うのは難しい。プロであるカウンセラーや精神科医でも難しいのに福祉関係者が受容を促進させるのはもっと困難だ。結局障害を受け入れるのは障害者本人しかできない。介護者や家族は障害者に対して障害受容に対しては何もできない。これが現実だ。
障害受容というのはとどのつまりは「現実直視」だ。認知症だろうが、脳梗塞だろうが自分に起きた障害をありのまま認め、良い所も悪い所も受け入れる事だ。だが健常者でも現実を直視しない人間はたくさんいる。すでに破綻状態にも関わらず年金にしがみつく人々、己の不安から逃れるために大麻を吸引する人々・・・「障害受容」が必要な人々は健常者に多いかもしれない。健常者でさえ「障害受容」が出来ないのであれば、障害者がそれをするのはもっと困難だ。だから障害を持つことになった人々の多くは自分の障害や将来の不安、様々なトラウマから逃げようとする。
だが結局、自分自身から逃げる事はできない。そこで自分が信じる虚像と現実とのギャップはさらに障害者たちを苦しめてしまう。すると中には自分の現実を受け止められない苛立ちを周りの家族や介護者に当り散らしたりする人もいるのだ。これについては前号でも述べた。だが、このような場合、周りの人々は障害者が理不尽な八つ当たりをするのを許容してしまうことが多い。
「障害を持って可哀想だから」などの理由で障害者が理不尽な攻撃やわがままをぶつけてきても周りの家族や介護者は黙ってされるがままの事がよくある。しかも、2000年以後介護保険が導入されてから利用者のお客様意識が強くなり、利用者に暴言、セクハラ、暴行をされても泣き寝入りする介護者が多い。だが、このような理不尽な攻撃に対し反撃もしないのは障害者をさらに障害受容から遠ざけてしまう。何よりも「障害を持っているから多少の無礼さは仕方が無い」と許容するのは障害者に対する最大の侮辱ではないか。
当たり前だが障害を持つということはそれだけ健常者以上に誰かの世話にならなくてはならない。排便や排尿の下の世話まで誰かに頼らなくてはならないのだ。第51号ヒューマンスキルで述べたように障害者は健常者よりも他人と上手くやる必要があるのだ。それに逆行する八つ当たりなど論外だ。ダメなものはダメときちんと叱れないのは何よりも本人のためにならない。勿論その過程で介護者と障害者が言い争いをする事もあるだろう。だがそれを経て人間関係が出来るのだ。障害者と争わないお客様主義は一見平和だが、それは親しい人間関係を遠ざけてしまう。誰も本気で接してくれない環境は障害者を孤独にして、障害受容をさらに難しくしてしまうのだ。
他人がどう関わっても障害者本人の障害受容を進めることは出来ない。こんな事を言うと「いや、介護者や家族の関わり方次第で障害受容を進められるはずだ」と語る理想主義者が福祉界にはごまんといる。だが、そういうことを言う人に限ってなぜか障害者と戦えない人が多い。当り障りのない言葉でその場を取り繕い、障害者と本気で向き合おうとしない。そんな面倒でエネルギーのいることはしたくないのが本音なのだ。周りの人間が障害者を甘やかすなどして本気で向き合わないとさらに障害受容を頑なにしてしまう。周りの人間が口だけの薄っぺらい偽善者でどうして障害受容を進められるのだろうか?
エル・ドマドール
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